くまから・かまから vol. 203

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 こんにちは〜。
 もう、9月も3日。まーんてぃぴゃーむぬやー。くま・かまも秋のかざ(匂い)がしてきましたよ。
 今回も、盛りだくさんでお送りしまーす。

運動会

大和の宮古人(城辺・長南出身)

 私は運動が大嫌いだった。
 
 走れば ぎーった(ビリ)、ハードルは手前で立ち止まり、高飛びはバーの下を潜り抜け、飛び箱は わーぎん(上)に座って・・・とこんな具合だ。逆上がりさえ出来なかったように記憶している。先生に練習するように言われても練習の仕方が分からなかった。そんなこんなでドンドン嫌いになった。運動会は苦痛の一日となる。
 
 あの頃(1950年代)は第一次ベビーブームで、私が通っていた西城中学校の生徒数は、1学年130名前後、全校生徒約400名前後はいた。(現在は、全校生徒100名弱だそうで、だいず少なくなっている。)
 
 運動会前日は かんたな(神棚)に願い事をしていた。一番にしてくれではない。あつぁー やまし ふぃーさまちよ(明日は病気にして下さい)あすがど(それでも)一度も熱さえ出した事もなかった。
 
 毎年運動会だけは殆どの子が新しい体操着が買って貰えた。男子は真っ白なシャツにズボン。女子はやはり真っ白なシャツかブラウスに黒のショートパンツ、ソックスも靴も白。真新しい木綿の かざ(匂い)を漂わせながら重い足取りで登校した。
 
 入場行進は校長、教頭、PTA会長が横に並び、後に各学年担任、1年生の男子、女子、2年、3年と続く。生徒は背の高い順だった。私はチビだったので最後尾になる。
 
 行進曲と太鼓の音で行進が始まる。背の高い人達の行進は足並みが揃い見事だったが背の低い人は揃わない。ついていくのに必死なあまり音楽や太鼓の音が耳に入らないのだ。一人が右を出せば一人は左あるいは途中となりバラバラ。心の中で、右、左と言いながら歩いたが揃ったためしが無かった。カーブにさしかかると後列からでも前列が見えた。いつもズミやーばーと思いながら行進していた。(入場門から運動場を一周してから入場した)校長、PTA会長の挨拶、ラジオ体操の後、生徒だけは退場行進もあった。
 
 最初の競技は100メートル走だった。コースの横には来賓用に机と椅子がズラーと並んでいる。その前を走るから溜まったもんじゃない。早い人は集中して走るから横は意識しなと思うが、ギーッタの人は気になって仕方が無い。嫌だなーと思うからピストルの音でもドキドキしてしまいスタートまでもが遅くなった。
 
 徒競走が終わると各競技が始まる。3年男子は必ず棒倒しとマスゲーム(組み体操)が決められていた。笛の合図でキビキビと技を披露していく。その中でも一番の大技は10数名でタワーを作り、技を決めた後に一瞬で崩れる所だ。全員の息が合わないとタワーがグラグラしたり途中で崩れてしまう。息を殺して見入っていた。成功したときの感動。今でも昨日の事の様に覚えている。
 
 中学3年生で初めてフォークダンスも知った(オクラホマだった様に思う)男子が内側、女子が外側に2重円を作り、手をとりなさいと言われた。男女共パニックだ。それまで男の子と手を繋いだ事など一度もない。
 
 先生達が何度も手を繋ぎなさいと叫ぶが全員モジモジして繋がない。一人 やうわ(厳しい?)先生がいて、棒を持って みんぎて(叩いて)回っていた。先生が近づくと慌てて手を繋ぐが先生が後ろ向いたとたんサッと ぱなりううたー(離れていた)
 
 その内に草や木の葉を持って繋ぐが見つかって又叩かれていた。同じ事の繰り返しで練習を始めるのにも何日もかかった。怒られても叩かれても最後まで繋がない子もいたがなぜか先生も剥きになって叩いていた。
 
 40年後に真後ろに並んだ子に聞いた。「○○君は手を差し出していたが女の子が拒否したんだよ」「先生は女の子が叩けなくて男の子だけが犠牲になったんだ。○○君は黙って叩かれて可哀想だったよ」
 
 離れている私達からは叩かれている様子しか見えず原因は男の子に有ると思い込んでいたが・・・。
 
 こうして毎日大騒ぎをしたが、私たち10名程の女子には関係がなかった。私たちの学年は男子が少ない。余り者の私達は女子同士でペアーを組む。喜んでいいのか悲しんでいいのか複雑な気持ちで眺めていた。
 
 後日先生が話してくれた。「男女で手を繋いでフォークダンスをしたのは開校以来あんた達が初めてだよ」と。私たちは男女ペアーにはなれなかったけれど、その言葉を聴いて嬉しい?誇らしい?気持ちになった。
 
 走るのが嫌いな私でもリレーだけは大好きだった。(応援が)あの頃、リレーは部落対抗になっていた。最後の種目になる。親も子も総立ちでワーワー、キャーキャーうぷぐいしい(大声で)自分の部落を応援する。
 
 200メーターのコースの外側は人で埋め尽くされ、小さい私などは選手の姿を見ることも出来ず、周囲の興奮の叫びと悲鳴で理解するしかなかったが、後で飛び上がって喜んでいた。
 
 全競技が終了すると再び入場行進がある。宮古の小中学校では運動会に日の丸と校章が印刷された旗を両手に持って校歌を踊る。全校生徒がグラウンドいっぱいに広がり、前後左右上下と旗を振りながら舞う。その度に全員で元気良く振る旗の音が風になびいて心地良く響いた。この校歌の舞で嫌いな運動会も幕となる。私は嬉しくて一番元気に旗を振り回していた。
 
 大嫌いな運動会でも一つだけ楽しみがあった。家族全員で囲むお昼の弁当の時間だ。我が家の弁当は毎年決まって宮古カマボコ、タクワン、ピンクのでんぶを海苔で巻いた太巻寿司だった。おかずは のーがやーたーがら うぶいやうらん(なんだった覚えていない)きっと無かったのかも知れない、それでも んまーんまだった(美味しかった)
 
 運動音痴を娘に持った、ばんたがカーチャンの名誉のために云うと、ばかーばかの(若い)頃のカーチャンはスポーツウーマンだったようで、運動会だけは大活躍したそうです。父兄のリレーには毎年シャシャリ出て抜きまくっていた。我が担任「カーチャンは早いのに何でアンタは遅いか?」と云われ、私は絶対貰い子に違いないと落ち込んでいた。
 
 運動会の練習で今でも重く心に残っている事がある。毎日放課後の炎天下に校庭で練習する。現在のように水道も完備されていなかった。学校には雨水を貯めるタンクが有り、飲料水にしていたが井戸はなかった。夏場は雨が少なく水が不足する。
 
 全校生徒約400名。一人一杯ずつ飲んでも、元々少ししか入っていないタンクの水はすぐ空になる。でも喉は渇く。そこで全校生徒が一斉に学校の周囲にある家の水かめを襲撃した。
 
 一軒を空にすると次の家と走り回った。留守の家が多かったので無断で頂いた。たまに柄杓を隠された事もあったが、探し出して飲んだ。全員で行くので怖くも罪の意識も感じなかった。家人は疲れて帰宅して空の水かめを見てどんな気がしただろう。学校に怒鳴り込む事もなく翌日には満杯に満たされていたが。

電灯がまだ無い頃の ばんたがすま

宮国勉(城辺西城出身)

 今からおよそ50年前の ばんたがすま(我等の里)、ゆなんだき(城辺町西中部落の与並武)は、夜になると車はともかく自転車でさえも滅多に通らない静かな すま(里)だった。
 
 月の出てない夜は真っ暗で、煙草に火を付けて歩かないと、人にぶつかるほどの暗さだった。灯りは石油ランプで、油も一升瓶を抱えて買いに行くほどの量だから、早く寝るよう躾けられた。
 
 高校生になってから電気が引かれ、屋根裏に10アンペアのヒュ−ズ箱が1個、蛍光灯が1台の質素な電灯が点いた。それでもランプの数倍の明るさになった。
 
 ういびしい ぐふてぃ つききゃあがみまい すさいん ばかーず ふぁーっふぁ やーたー(指でチョンと突くまで分からない位に暗かった)
 
 子供の頃はそんな暗い夜道を懐中電灯もなく買い物に行かされた。暗いだけでも恐ろしいが、キビ畑の傍を通るときにカチャと音がしたりしてかーふんた(ヒキガエル)が脅すのだった。また、少し大きな石が地面から突き出していて、それに ぴさぁきり(躓いて)痛い思いをすることもしばしばあった。足の小指の爪が小さくて変形しているのは当時の遺産である。
 
 唯一の電灯が いずかたぬ てぃんぬ てぃらしぅう いけまぬ とうだい(西方の空を照らしている池間島の灯台)で、あっという間に廻っていく。当時は私もまだ近代の文明に冒されない動物的な勘が働いて、月夜の晩でなくとも人の姿格好で何処のだれかの識別ができた。んなまぁ みーやむっち とぅつき みーろうまい のうまい みーらいん ぱず(いまでは老眼で目を凝らして見ても何も見えないだろう)
 
 今はどこもかしこも明るすぎて神秘性も薄れ、人も動物的な勘が乏しくなって魂がいなくなった。あの頃は すま(里)に魂がいっぱい浮遊していた。今は火葬だが、あの頃は納骨して自然に土に帰るような埋葬でしたので、そんな思いがする。
 
 夢に見た通りのことが現実となる夢を正夢、その逆を逆夢などというが、現在起こっている事が「絶対に昔、夢で見た!」そんな感覚を何回か経験した。夢で見ていた全く同じような展開で繰り返される。霊感が有るわけではないが不思議に神通力(じんつうりき)が通じて結構、賭け事などが的中して強運を感じることがあった。今年の5月、ゴルフをしていた時、スタートして間もない8打目がホールインワンになり、その時も似たようなことを覚えた。
 
 宮古では みーにつ(命日)は夜になってから親戚が集まり かびじん(あの世のお金として紙にハンコを玄翁で打ち込み、丸い模様を作る)を燃やし、生米と泡盛で清めてから焼香をする。は〜い てぃーゆ かみるら!(はい、そろそろ手を合わせて)の合図で皆が手を合わせる。終わって帰る頃は大抵が夜中になるのが普通だった。
 
 母の実家は あがす゜すくばり(東底原)の見晴らしの良い丘の頂上付近にあり、門は あがい方から入った(東からの門)。その道を隔てて南へ下りながら4〜5軒並んで近所があった。
 
 反対側の西方はアダンが斜面を覆い隠すように密集して人が立ち入る隙間もない位に茂っていた。その中程に一つだけ ぱか(墓)があり屋根だけが白く目立っている。その尾根伝いには、ビマル御嶽、アカドヌ御嶽へと続いて ゆなんだき に至る。正面はだんだん畑で上から下の畑までサトウキビが植えてあった。
 
 ある日、祖父母の命日で、その日の帰りも遅くなってしまい、大人は6人ほどだったと思う。私は うぷあざ(従兄)の背中にしがみつき、楽をして帰ることになった。体格の良い あざなので、いつもの高さと違う所為なのか周りの見え方や様子がちがうようだ。満月の晩で空には雲のない夜だったので樹の影がハッキリできていた。
 
 坂道を下り右に折れ、坂に差し掛かる辺りで、道路から一段下がったそのサトウキビ畑のかまぼこ形の畝に猫がいた。背中の上から猫が居るよ!と私が言ったら大人が一斉に んざん?(どこに?)と恐怖を覗かせながら訊いた。近くに寄って指さしたのは木の影だった。
 
 周りの大人は、いぎ〜 まーん(ばかたれ!)と非難の嵐!本当は大人も緊張するような場所であることが伝わってきた。あれは確かに っふまゆ(黒猫)だった。しかし、純粋な子供と動物には幽霊が見えるらしい。馬が行くのを拒む時があるが、ナニかがいるに違いないのである。
 
 すま(里)では “ずうぴき゜まゆ”(尾が長く地べたを撫でるように歩いている猫)は まずむぬ(幽霊)とされる。出てきそうな処は坂、峠、辻、橋、急カーブ、木が鬱蒼とした場所や空屋敷、洞穴(なうさ穴)など、至る処が不気味なそんざいであった。
 
 あがす゜すくばり(東底原)は、怪奇現象の噂が多いところで、ある時、空恐ろしい化け物がでたと、大騒ぎとなった。鳴き声はまるで うすぬくい(牛の鳴き声)に似ると大騒動になった。その内に誰かが恐いもの見たさに珍獣の正体を突きとめ、ただの食用蛙と分かった。食用蛙が鳴く声をまずむぬ(お化け)だと思ったのである。しかし、食用蛙の鳴き声を知らない人は、この世の生き物とは思わないほど空恐ろしい声だと思うだろう。
 
 岩槻の以前住んでいた家の辺りはハンノキの雑木林の湿地帯で“う〜う〜“と食用蛙が鳴いて賑やかだった。近づくと”ウッ チャポン”と水に飛び込む音だけで姿は見えない。朝方にU字溝を覗くとドッサリと卵が産み付けられていた。頭にライトを着け竹竿を持って、それを捕りに来る人もいた。一度捕まえたことがあったが、足を持って広げると裕に30センチはあった。これを食べるのかなあ・・・と人間の逞しさに感動した。
 
 しかし、ぬずずぅー(イシクラゲ:ネンジュモ科)を食べたことのある我が身の云えることではなかった。雨後の ぬー(野原)に、まかや(茅萱)の生え際の地面に、黒っぽいワカメみたいなブヨブヨした物が ぬずずぅー(イシクラゲ)、つまり地球の なば(垢)である。富栄養化によるアオコと同じ藍藻類の仲間で、味噌汁で食べさせられた。ワカメを煮すぎたような食感で独特の味は無かったような気がする。贅沢三昧をしているような人に ふくりぬずずぅー(膨れあがった海苔め)と喩えて悪口を云っていた。今では採れそうな地面が少なくなっていると思うが何処にでも発生する藻である。

久松中演劇部の皆さんに拍手!

Motoca(平良出身)

 あば、中学生ってこんなに やらびーやらびとしていた(子供のようだった)か?
 
 それが、ステージの上にいる彼らを見たときの、第一印象だった。
 
 彼らは、久松中学校の2年生と3年生。神奈川県で行われる第9回全国中学校文化祭に出場することになったメンバーだ。この文化祭に演劇部門で出場するのは、沖縄勢では初めてだという。素晴らしい快挙である。
 
 その快挙を成し遂げた中学生達が、想像していたよりもっと幼く感じたので、驚いたのだ。私が普段、東京で、大人びた都会の中学生を見るのに慣れてしまっていたせいだろうか。
 
 総合文化祭での本番を一週間後に控えた8月14日、宮古のマティダ市民劇場では、宮古島市教育委員会と久松中学校の主催で、「久松中学校演劇部壮行公演」が開かれた。出演する中学生達へのカンパも兼ねたもので、宮古中から900人以上の観客が集まったという。ちょうど宮古に帰省していた私も、父とともに応援と観劇に出かけた。
 
 開演予定時刻の10分前には会場に入ったが、どの席もすでに がふー(びっしり)と埋まっていた。ようやく後ろの方に空いている席を見つけて座ったのだが、程なくすべての座席が埋まってしまい、通路で立ち見をしていた方もいた。
 
 さて、定時をやや過ぎた頃、ステージの上に、ふたりの中学生が登場した。演劇の出演メンバーである、ぼうちら(腕白な)男子生徒といじめっ子役の女子生徒である。
 
 彼らがこの壮行会の進行を努めた。時に演劇っぽく、時に漫才風に、アドリブで工夫を凝らしながらの司会進行は、どこか初々しくて、ほほえましかった。あがいー、かわいいがまゆー、宮古の中学生。もー、抱きしめてチュウしたくなりました。
 
 ステージの最初を飾ったのは、久松(松原)青年会による獅子舞。三線も唄も生演奏である。はー、こういうときにさらりと披露できる伝統芸能があるっていいなあ。青年会のある地域っていいなあ。こうして近所のあざ(兄さん)達が先頭に立って、激励しているんだよなあ。妙な嫉妬心おぼえつつ、しーしゃ(獅子)の動きがあまりにも上手いので、途中から見入ってしまった。
 
 伝統芸能を鑑賞したあとは、宮古島市教育長の主催者挨拶(壮行会は宮古島市教育委員会の主催)、緊張しがちな挨拶をはさんで、いよいよ演劇の披露される番である。
 
 こんどは進行役の男子生徒ひとりだけでステージ中央に現れた(演劇が始まってすぐ分かったのだが、彼は遅刻してくる役なので、他の出演者よりゆっくり準備ができる)。その彼が、「どうぞご覧ください」と言って舞台袖に戻る間際、ぴたっと立ち止まって観客の方に向き直った。
 
 「・・・ハンカチ、2枚必要」
 
 そう言いながら、両手でVサインをつくって見せると、満足したように舞台袖に消えていった。その時は、中学生らしいかわいいアプローチだなあ、と思ったぐらいだった。でも、その言葉は、その通りになった。まーんてぃゆ(本当によ)!私が持っていたタオルハンカチは、劇が終わる頃にはしっとりして使い物にならなくなっていた。
 
 「やくそく〜涙をこえて〜」と題された約50分の劇は、中学校の「いじめ」をテーマにしたもの。だからといって、ずっとシリアスなシーンばかりではない。おもしろさも、ほほえましさも、楽しさも、適度にストーリーの節々にちりばめられていて、退屈することはなかった。ストーリー終盤、クライマックスに向かって話が進むにつれ、だんだんとシリアスになり、涙する要素が増えていく。
 
 いじめ、って、そうだ。最初はちょっとした嫉妬心や出来心から、からかいが始まるんだ。やらびーやらびと見えるけど、子供から大人に向けて歩き始める年頃。だから、とても多感で、少し反抗的で、自他の成長の差がいちいち気になるのだ。
 
 私はだんだんと、自分が中学生だった頃の気持ちを思い出しはじめた。よみがえった記憶が登場人物の気持ちに繋がり、ストーリーが展開されるにつれて、涙がでてきて、止まらなくなっていた。
 
 「中学校時代というのはね、自分探しの旅なんだよ」。
 
 最後の、先生役のセリフがぐっとくる。完全に涙腺崩壊だった。
 
 なんと、気持ちの伝わってくる劇だったのだろう。なんと、心を引き込まれる演技だっただろう。中学生の演劇って、これまでに見たこと無かったけれど、本当にすごい、見ーずみ(見応えのある)演劇だった。これを「ずみ」といわなかったら、なにを「ずみ」というかよ、って思うぐらいずみだった。
 
 もし、自分が中学生だった頃にやれと言われたら、んば(嫌)と即答したに違いない。それでもやらざるを得なかったら、棒読みでだるだると(だらだらと)やっただろう。最初、そんな考えでいたものだから、宮古の中学生が演劇だときいて、あまり期待はしていなかったのだ。本当に、ごめんなさいと言わなければならない。
 
 演劇が終わったあと、10分ほどの休憩を挟んで、校長先生の短い挨拶があった。教育長よりさらに緊張しているような感じだった校長先生。あるいは、演劇に涙したあとだったからなのかも知れないな、と思った。
 
 プログラムの最後は、後輩の激励のために駆けつけた下地勇さんのミニライブ。直前まで客席で観劇していた勇さんは、「これから歌わなきゃならないから必死で涙をこらえたけれど、それがなければ大泣きするところでした」とおっしゃっていた。演劇を見て、歌う予定だった曲を変更なさったのだそう。
 
 その日勇さんの歌は、デビュー曲でもある「我達が生まり島」ではじまったが、そのあとは「陽射しの中で」「一粒の種」「周回遅れのランナー」で、なにかを乗り越えるようなメッセージを持った歌がつづいた。
 
 一度舞台袖に戻ったあと、最後は演劇に出演する中学生全員と青年会の皆さんとともにステージに再登場し、客席も巻き込んで皆で「ワイドー!」の大合唱。あのときマティダ市民劇場の中にいた誰もが、心から「ワイドー!(がんばれー!)」と叫んで出いたと思う。もちろん私も。がんばれ、その ずみぎ演劇を、全国中学校総合文化祭の舞台でしっかりと披露してきてね、と。
 
 21日の本番の日は、どうしても仕事が休めず見に行くことができなかったが、くまかまの掲示板や宮古毎日新聞のホームページで、彼らが堂々と演技をやり遂げたこと、とても評判の良かったことなどを知り、ぷからすくと(うれしいこと)だと思っている。

 改めて、ふるさとの まいふか(すばらしい)中学生達に拍手を送りたい。

素晴らしい舞台に感動!

松谷初美(下地町高千穂出身)

 8月21日(金)の午後、全国中学校総合文化祭に参加した久松中学校の舞台を見てきた。
 
 これまで、宮古の子どもたちの応援には、バレーボールの応援(下地小学校、伊良部高校)という“宮古が誇るスポーツ”で行ったことはあったが、演劇という文科系は初めてのこと。「んにゃ、のーしーがらやー(どんな感じかねー)」と思いながら神奈川県立青少年センターに向かった。
 
 第9回全国中学校総合文化祭は、〜育もう!夢のたまご。はばたこう!未来に向かって〜をテーマに展示の部(絵画、書道、技術木工など)と、舞台発表の部(合唱、吹奏楽、演劇、郷土芸能など)で行われていた。(前日(20日)には、石垣の川平中学校が郷土芸能 創作「川平満慶太鼓」を披露したそうだ。)
 
 会場は、出番を待つ中学生やパンフレットの販売をする生徒、来賓受付などで賑やか。ロビーには、今回の演劇の脚本を書き、演劇指導もされた宮国敏弘教頭先生の同級生の皆さんや、宮国先生の教え子だという人、見るからに宮古かーぎの人たちが見えた。それから、関東宮古郷友連合会の会長も応援に来ていた。
 
 くま・かまメンバーは、読者のさとみさん、ライターのビートルズ世代のサラリーマンさん、大和の宮古人さんと私で、取材をする宮国優子さんと まーつき(一緒に)前のほうの席へ。
 
 「沖縄本島から南へ300キロ離れた島、宮古島。・・・珊瑚礁と、エメラルドグリーンに浮かぶこの島の景観は、・・・そのままルーブル美術館に展示できそうな・・・屋根のない美術館・・・」そんな久松中学校の紹介アナウンスで幕が開いた。
 
 緊張した思いで舞台を見つめたが、久松中学校の生徒の皆さんのハリのある声での堂々の演技にぐいぐいと引き込まれ、すっかり物語の中に入っていった。
 
 Motocaさんからの掲示板への書き込みで素晴らしい舞台であることは知っていたが、まーんてぃ、その通りで、感動で、なだ(涙)があふれた。そして、ハンカチ2枚必要の理由も実感したのだった。(5枚必要!と語った人もいたくらい)
 
 生徒の皆さんは、しっかりと自分の役になりきり、あくどいセリフや実直さ、人の強さや弱さを見事に演じ、とても魅力的だった。いじめが本格化してきた時には、制服の袖をまくりあげての登場。迫力があった。(この袖をまくりあげの部分は生徒たちで考えたそうである(宮国先生談))
 
 地元と違う会場でやるのは、大変なことも多かったようだが、そんなことを少しも感じさせることなく、観客の心を掴んでいた。
 
 舞台が終った後、裏の方に行くと、先ほど舞台に立っていた生徒たちが道具の後片付けを一生懸命やっていた。舞台での印象が強いので、そのまま劇でのキャラクターが思い浮かぶ。「素晴らしかったよ」と声をかけると「ありがとうございます!」という言葉が返ってきた。
 
 帰る道々、くま・かまメンバーで劇の余韻に浸りながら、「宮古の子どもたちはすごいねー」などと話をしていると、久松中学校の劇を見ていた内地の方から「素晴らしかった」と声をかけられた。そして、評判が高いということも。
 
 私たちは、自分たちのことのように、ぷからすーぷからすになり、誇らしい気持ちでいっぱいになった。
 
 夏の終わりを惜しむかのように太陽が照りつけた8月21日。久松中学校演劇部の皆さんは全国の舞台に堂々の花を咲かせた。

おしらせ

松谷初美(下地町高千穂出身)

指笛音楽75周年記念「指笛音楽研究発表会」ー人の数だけ音色があるー

 東京・練馬で行われる指笛音楽研究発表会に、指笛王国おきなわの国王、垣花譲二さんが参加されるそうです。指笛で奏でる音楽の世界に浸ってみませんか?お近くの方、興味のある方は、ぜひどうぞ〜。

日 時2009年9月26日(土)開場12時30分 開演13時
場 所練馬文化センター(小ホール)
所在地 練馬区練馬1-17-37 電話03-3993-3311
交通アクセス 西武池袋線・地下鉄有楽町線・大江戸線=
練馬駅北口から徒歩1分。  
内 容垣花さんを含め24名の出演者が好きな曲を指笛でピアノ伴奏に合わせて演奏するそうですよ。

 
 入場は無料ですが、整理券が必要とのこと。
 
 ※ご希望の方は、松谷(kumakama@mbp.nifty.com)までメールください〜。

編集後記

松谷初美(下地町高千穂出身)

 きょうは旧盆の うくいびーですね。宮古では、あの世の人も帰省した人たちも交えて賑やかだはずねー。しーむぬ、てんぷら・・・うう ふぉぶすむぬどー。
 
 さて、vol.203、前半は、同じ城辺出身のお二人で同時代のお話。後半は久松中学校演劇部の話しをお送りしました。のーしが やたーがらやー?
 
 大和の宮古人さんの「運動会」、風や匂いまで届いてきましたねー。運動の苦手な大和の宮古人さんの気持ちに(身に覚えあり)クスっと笑ったり、かまぼことたくあん、でんぶの巻き寿司に懐かしさがあふれました。「オクラハマミキサー」を踊った最初の中学生!にはびっくり。
 
 昼間の てぃだ(太陽)の明るさとはうらはらに漆喰の闇がシマを包む宮国勉さんの「電灯がまだ無い頃の ばんたがすま」の話。まーんてぃ、やらびぱだあ(子どもの頃は)夜が怖かった。「魂」の話も大人からよく聞かされました。「明るすぎて神秘性も薄れ・・・」分かる気がしますね。
 
 久松中学校演劇部の壮行会の様子。感激するMotocaさんの あつーあつぬ(熱い)気持ちが伝わってきましたねー。全国文化祭も良かったけど、Motocaさんのを読むと、マティダにも行きたかったなーと思いますね。それにしても、子どもたちを応援するシマの人たちの情け深さ。感動します。
 
 指笛王国の国王・垣花譲二さんの出る「指笛音楽研究発表会」、聴きに行くのがだいず楽しみです。お申込お待ちしていますよ〜。
 
 今回の感想もぜひお寄せくださいね。
 しまいがみ、ゆみふぃーさまい、たんでぃがーたんでぃでした!
 
 次号は9月17日(木)の予定です。
 きゅうまい、かぎ ぴかず(佳き日)でありますように。
 あつかー、またや〜。