こんにちは〜。
朝晩、ぴしーぴしがま(肌寒く)なってきましたねー。心のウォームアップにもぴったりのくま・かまですよ。
vol.206お楽しみください〜。
DNA
R(平良西里出身)
私の両親の んまが(孫)の数は、総勢20名。その んまがたちでつくった「いとこ会」と称する模合があります。
模合は、金銭相互扶助を目的とした、金融手段の一つですが、若い時は、定期的な集まりの場を作るために模合を行うことも多いです。
シルバーウィーク期間中にその「いとこ会」によるビーチパーティーが沖縄本島西原町のビーチで開催されたので、私もスイカを持参し、「いとこ会」参加資格のある娘(次女)を連れて参加しました。
「いとこ会」一番年長は、長女姉さんのところの長男で36歳。結婚し、小学校2年生の子どもを頭に4人の びきやらび(男の子)のお父さんとなっています。一番年少は、私の次女娘、小学校6年生の12歳。私の次女からすると二回りの年齢差は、現時点では「いとこ」というよりは、「○○のお父さん」という感覚でしょう。ちなみにその甥っ子と私の年齢差は、一回り。今でも叔母さんにあたる私のことを「お姉ちゃん」と呼んでくれています。
幹事は、長女姉さんの次男と次女姉さんの長女。いずれも適齢期(今では死語?)の独身者です。会うたびに「いい話はまだねー?」が挨拶代わりです。
東京に住む四女姉さんの長女が、彼氏と一緒に参加したのが一番 あがた(遠方)からの参加でした。その彼氏は、「いとこ」の仲の良さに驚いていたそうです。三女姉さんの長男もお付き合いして間もない彼女を連れて参加。幹事を務める長女姉さんの次男は、今回初めて、結婚を前提にお付き合いしているという彼女と彼女の子どもたち(小学校2年生と幼稚園生の女の子二人)とそのいとこを連れて参加。この甥っ子の彼女とその家族の存在は、今回の「いとこ会」のサプライズとなりました。
ビーチパーティーの参加者は、その家族やゲストも含め、35人となりました。(妊娠8ヶ月の長男兄さんの長女のお腹の子も併せると35.8人といったところでしょうか。)
子どもたちは海水浴を満喫し、みんなでバーベキューのお肉をたらふく食べ、大人たちはおいしいビールを飲み、話に花を咲かせるといった久しぶりの開放感を味わいました。
みんなの繋がりの元となるおじー・おばーである私の宮古の両親が今では存在しないことが信じられません。
かあちゃんは、こんなふうに身内が集まることが好きでした。私の携帯電話のアドレス帳に残してある実家の電話番号にかけて「こんなだったよー。あんなだったよー。」と報告したら、「そうねー。よかったさー。」と言うかあちゃんの声が聞けそうな気がします。成長した んまが・またんまが(孫・曾孫)たちの様子を知ると父もさぞや喜んだことでしょう。
ビーチパーティーの最後は、子どもたちのスイカ割りで締めくくりました。目隠しすると立ち止まって歩けない子、体の向きをすぐに横に変えてしまう子、振り下ろす際に腕を縮めてスイカまで届かない子、あたらなかったといって泣き出す子、もうちょっとというところで外した時に「くやしいーです!」とお笑いタレントの真似をする子、スイカまで近づいてまず棒でスイカの位置を確認してから棒を振り下ろす子・・・。
それぞれ性格は違えどもおじーとおばーのDNAがしっかり受け継がれていることを感じ、ぷからすーぷからすに(嬉しく)なりました。
『かにくばた』どぅかってぃ解説
マツカニ(上野高田出身)
今回は、「かにくばた」という唄を紹介したいと思います。
琉球王朝の時代に「島分き」という強制移住が行われた。その悲哀を唄った民謡が、宮古、八重山にありますが、その一つが、この「かにくばた」です。
かにくばた 1.かにくばたよ だきみーぶす ぶなりゃがま (かにくばたよ 抱いてみたい 女の子) (ハヤシ)ユイサースゥーリーヌ ブナリャガマ サーハラユイサークラユイサーサ ウッショーッショウヌ ニングルマトゥ マトゥヨ 2.あらすぬ むぎぃ゜だきよ むとぅいかぎ ぶなりゃがま (新地の 麦のように 生まれつき美しい 女の子) 3.ぬばりすぬ まみだきよ やつかふぬ さやぬにゃーん (野原の土地の豆のように 八束穂のように 莢のごとく) 4.あとぅゆかす゜よ すぅらゆかす゜ ばんたがむてぃ (後の幸せよ 先々の豊かさは 私達のものよ) 5.ぶなりゃうわぅばよ かぐんなぬうし うぷらんかい (女の子は 籠に乗せて 大浦に) 6.びきりゃうわぅばよ たてぃんまんぬうし かす゜またんかい (男の子は 素晴らしい馬に乗せて 狩俣へ) 7.ゆなびすぅいばがんまよ ゆつみすぅいなしゃるうや (夜通し一緒の私の母よ 一晩中見守るお父さん)
私の好きな唄の一つに、八重山の「つぃんだら節」がありますが、この唄は「島分け」により、幼馴染との別れが、物悲しいメロディーに乗せて唄われています。反面この「かにくばた」は、新しい土地に希望を持った内容になっていて、軽快な早弾きのリズムでうたわれます。唄の部分よりハヤシの方が長いのも「かにくばた」の特徴になっています。所変われば品変わるではありませんが、この対極にある2曲おもしろいと思いませんか?
因みに西表の有名な民謡「デンサ節」は荒れ野に移住させられた人々が、貧しさに負け悪行を行い義理人情を忘れそうになった為、戒めの唄として誕生したそうです。またまた因みに沖縄民謡の「ハリクヤマク」と「かにくばた」は似たような曲調です。どっちが先にできたかわかりません。悪しからず。ではでは。
※参考資料『平良市史第七巻 資料編』
曼珠沙華
菜の花(伊良部町仲地出身)
本棚を整理していたら、本と本との間に しばげーなー(窮屈そうに)挟まったノートが目に留った。何だろう?・・・取り出してページをめくると「宛先のない手紙 出会いから拾った言葉」とある。
あんみゃ〜!だいず〜!(あらまあ〜!なんということ!)30代の頃、大学病院で働いていた時書いたものだった。んなみ(今)、思いだしてもよく働いたものだと思うほど、ぱんたーぱんたぬ(忙しい)日々だった。
毎日のように病気で苦しむ患者さんが搬送されたきた。あの頃は「看護とは??」と、いつも つむ(心)の中いっぱいに疑問符が詰まっていて、息をするのも苦しいくらいに悩んだこともある。
んきーんぬ(過去の)自分に再会するような、ぴるます(不思議な)気持ちで読んでいくと、特に思いだされる患者さんがあった。
んーぎ!(そうだ!)彼女は夏から秋へと変わるちょうど んなみずぶん(今の時期)に亡くなったんだ・・・。いろんな場面がありありと蘇ってきた。
当時、彼女は50歳だった。そして来年私も彼女と同じ50歳になる・・・。彼女は趣味で絵を描いていた。二科展入選の授賞式に向かう電車の中で、突然呼吸困難になり私の勤める病院に搬送されてきた。
緊急の気管切開、酸素投与、入院・・・。授賞式会場で賞を貰うはずの彼女は、病院のベッドの上で患者として横たわっていた。気管支の辺りにできた小細胞がんと診断された。
「成長が早いうえ、これといった治療効果がない」そう告げられた彼女は、一通りの検査と治療が終わると自宅へ帰っていった。
数ヵ月後、彼女は体力の衰えと呼吸の苦しさを訴えて入院してきた。いっつぁ あらーあら(息も荒く)、上下する肩の動きで苦しさが手に取るようにわかった。仰向けで寝ることも、体を横にすることもできず、昼も夜も体を起こしたままだった。
ある夜勤でのこと。彼女はいつにも増して呼吸困難になった。気管カニューレ(気管切開のあとに入れた管のこと)からは、ヴーヴーと穴を塞がれたような呼吸音が漏れる。何をしても呼吸が落ち着かない。医師から気管支鏡で見せてもらったのは、気管カニューレの先端にある腫瘍の一部とみられる組織片だった。呼吸のたび見事な弁のようにカニューレを塞いだり、離れたりしていた。
背中をさすり、呼吸を整えるように促しながら一緒に深呼吸をした。処置が終わって彼女と二人きりになった病室は夜のせいもあり、急にシンとなって彼女と私の息の音だけが響く。彼女を見ると、さっきまでのパニック状態を物語るかのように、汗で髪が額に張り付いていた。汗を拭き取ったとき、体を支える浮腫んだ腕に私の手が触れ、うぬ くぱさん(その硬さに)驚いた。浮腫んだ腕が「看護とは??」と問いかけていた。申し訳なさに恥入った。ベッドに腰掛けて私の肩に彼女の頭を乗せ、浮腫んだ手のこりを揉みほぐした。
のーまいあらん ぱなす(他愛のない会話)に彼女は微笑んだり、頷いたりしてくれた。いつがーら(いつしか)反応がなくなり、次第に私の肩がビリビリ痺れてきて、彼女のカニューレからは規則的な寝息が漏れてきた。
夜勤相棒が声をかけてきたので、彼女は目を覚ました。体を立て直すと筆談用のメモ帳に「ありがとう」と書いた。少しでも楽になったか訊ねると、こっくりと頷き深々と頭をさげた。それが彼女との最期の時間になった・・・。
夜勤後の休み明けで出勤する私を待っていたのは、朝方彼女が亡くなったことを知らせる師長の静かな声だった。病室へ行くと、二人の娘さんが椅子に腰掛けて彼女を見つめていた。彼女はもう体を支えて座ってはいなかった。体を横たえて眠っていた。化粧をし、唇は口紅で染められ美しい顔だった。本当に気持ちよさそうに眠っていた。やっと、横になって眠れたのだと思うと、いろんな思いが溢れてきて涙が止まらなかった。・・・・そうして彼女は病室からずーっと居られる やーんかい(家へと)帰っていった。
しばらくは彼女がいた病室に行くたび、彼女の誕生日のことを思い出した。彼女の誕生日が間近になったとき、家で祝ってあげたいと きない(家族)から申し出があった。ところが、当の彼女は家族に迷惑がかかるので、帰っても申し訳ないと外出も外泊も拒んでいた。
その数日前から、彼女の気持ちは不安定な状態にあった。彼女の部屋を訪れた時のこと、私を見るなり乱暴にメモ用紙を取り「もう決着をつけたい このままではイヤ 苦しい 痛い このままなら死んだ方がマシ」となぐり書きをし、ペンを放りだして涙をこぼした。
知的で、理性的で、毅然としていた彼女の鎧が剥がれ、誰でもいいからすがらせてほしいというむき出しの姿だった。苦しさで泣くことさえ満足にできない彼女に、どんな言葉をかけても薄っぺらな感じがした。背中をさすり、一緒に哀しむだけの のーまいにーん(無力な)私だった。
泣いたままの顔でステーションに戻った私を見て、スタッフも師長も驚いた みぱな(顔)をした。先ほどの彼女の様子を話し、病棟で誕生日を祝えないか話してみた。「そうね〜。やりましょう。」すぐに答えた師長は、ケーキ屋さん、花屋さんに自ら電話を入れ準備を進めてくれた。
彼女の誕生日がきた。
家族、教授、主治医には事前に連絡し参加してもらった。本人だけが知らない。時間がきた。患者用テーブルにシーツを敷き大きなケーキに蝋燭を灯し、スタッフと医師が揃って家族と彼女のいる病室に入った。師長の合図で全員で♪ハ〜ピィ バースデー トウ ユ〜♪と歌った。彼女の目に光るものがあり、嬉しそうな彼女の笑顔を久しぶりに見た。
お祝いにみんなでメッセージを書き込んだ色紙を贈った。私は彼女が教えてくれた「むくげの花は人の哀しみを吸って大きくなる」とのことが心に深く残っていたので
「白槿 ひと日ひと日を 在りのまま」
と句を詠んで贈った。泣きながら何度も俳句を指でトントンと叩く彼女に、私はただ頷くだけだった。
昼のカンファレンス時間を利用しての小さな小さな誕生会だった。しかしその数日後、彼女は外出を決意した。自宅に居る母親への別れの挨拶、外国でピアノを学ぶ娘が帰国したのでピアノを聴かせてもらいたいこと、身辺整理をしてくる、との彼女の決意が筆談から理解できた。
それらのことすべてを終えて戻ってきた彼女は、やぱーてぃ(穏やかに)、ぬかーてぃ(静かに)微笑むことが多くなった。彼女の病室だけ、時間の流れが違うような感じすらした。
それから数日後。育ち過ぎた腫瘍は気管内で出血し、彼女の命の時計が止まった。生きながらにして、自分の死を間近に感じながら過ごす時、人は何を思うのだろう・・・。そんなことを考える私がいた。それでも、彼女の誕生日を思い出すたび温かな思いになれた。
今年もまた、仕事の帰り道で突然地面から飛び出したように曼珠沙華が赤い花をひろげていた。そうだ!ちょうど今の時期だった。最期のお別れに彼女のために詠んだ句が頭に浮かんできた。
曼珠沙華 病の果ての 命燃ゆ
私の命も燃えている。今を生きるみんなの命も燃えている。花火のような花弁に、赤々と燃える命を感じながら、爽やかな秋風を んにうつんかい(胸に)いっぱい吸い込んだ。
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
宮古では、ここ何日か雨が降り続いているようですね。雨不足が しわ(心配)されていましたが、うむやすむぬやー。
そして、今年もタカがやってきたようですね。13日付け宮古毎日新聞では、下地地区で約800羽の大群が確認されたと報じていました。空高く舞うタカの姿は、まーんてぃ みーずみむぬ。タカは、一晩休んだ後、東南アジアに向かって旅立つのだそう。無事に渡ってほしいものですね。
さて、vol.206は、のーしがやたーがらやー?
Rさんの話しには、いつも愛があふれていて、読み終わったあと、だいず満たされた気持ちになりますね。ご両親が根っこにあり、DNAが繋がった先の「いとこ会」。みゅーず(姪っ子、甥っ子)たちを温かく見つめるまなざしとご両親への深い想いが伝わってきました。携帯電話に残されている実家の電話番号の話には、なだが・・・。
毎回好評のマツカニさんの民謡解説。今回の「かにくばた」もよく耳にする民謡ですが、こういう内容だというのは、まったく すっさたん(知らなかった)!知らない方言も多く、その意味も初めて知りました。民謡の解説には諸説あり、マツカニさんは毎回苦労するようですが、マツカニさんならではの解説、今後もご期待くださいね。
久しぶりの「菜の花病院物語」。やはり、心打たれましたねー。患者さんは菜の花の看護にどれだけ癒され、励まされたことでしょう。菜の花は、書きながら当時のことがありありと思い出され、涙があふれて仕方なかったそうです。でも、感情的になることなく、当時を見つめて書かれたものは、深く心にせまってきましたね。
今回も、しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃでした。
うわが感想ゆまい、きかしふぃーさまちよー(あなたの感想もぜひお聞かせくださいね)
次号は三週間後、11月5日(木)の予定です。
うぬときゃがまみ がんずぅかりうらあちよー(その時までお元気で)!あつかー、またや〜。