こんにちは〜。
思わせぶりな春は、んざがらーんかい(どこかへ)。 きょうもきょうとてぴしーぴしの東京です。
冬季オリンピックもいいけど、くま・かまもね!
ふぉーむぬ(食べ物)の話
naichar-shima(下地・高千穂出身)
その昔、吉祥寺の井の頭公園の近くに住んでたことがあって、その近くにラーメン屋があったんだけど、そこのトリソバと五目たまごソバがとても旨くて晩飯は毎日のようにそこに通ってた時期があった。
ある時、宮古の先輩に会うことがあり、お互いの近況を話しつつ、腹減ったから飯でも食いにいくかということになり、先輩に「俺のアパートの近くに だいず旨いラーメン屋があって、そこのトリソバと五目たまごソバはやめられんどうや」と話したら、先輩も「よし、じゃそれをたべに行こう」となり、そのラーメン屋まで行き、俺は即座にトリソバを注文し、先輩はというとメニューを見ながら悩んでる様子。
当然、トリソバか五目たまごソバを頼むかと思いきや、「俺はカレー頂だい!」っつぁー(だって)。一瞬時間が止まった。いや全世界が止まったように思えた。空を飛んでる飛行機も、どこかで走ってるであろうマラソンランナーも、蕎麦屋の出前のバイクも、犯人を追っかけているであろうパトカーも全てが止まったように感じられた。
それを見ていた神様が大あくびをしながら目にいっぱい涙をためて難儀そうに指をパチンと鳴らすと又世界が動き出し、俺も我にかえり、「ハァー!?カレー!??カレーな?ん?カレーな?」と何度も聞き返した。
先輩は「して、カレーを食べたいのに」っつぁー。「あがいー、うわー、あんちぬぴとぅ!(あんたは そんな人だー!)」俺はものすごく落胆した。そりゃー、メニューを見てて突然カレーを食べたくなったかもしれないけどさ。そういう友情親切台無的気まぐれ裏切行為はしちゃいかんのじゃなかろうか。
せめて、先輩はトリソバか五目たまごソバを注文し、おいしかったかどうかは別にして、そして別れ際に「かつぼう、今日はありがとうな」くらいは言ってほしかったのである。かつぼう的には。
きっと、その先輩は北海道でご飯食べに行ってもカレーを注文するであろうことを難なく想像できたことはいうまでもない。
そういう俺も、昔から食べ物に関してのこだわりとかいうものはほとんどなく、どこそこのラーメンがおいしいからといって並んでまで食べようとは思わないし、たまたま入ったお店がおいしかったら、その店を頭の中にあるブックマークをクリックして保存し、何かの機会があれば食べに行くというくらいのものだ。
今、俺が一番食べたいものはソーキ汁である。ソーキ(骨付き豚)と野菜(昆布や すぅ(冬瓜)、やつうさ(よもぎ)、ばんき゜(桑)の葉やら)があふれんばかりに盛られたあのソーキ汁だ。それも宮古に行って、しかもかーちゃんが作ったソーキ汁じゃなきゃダメである。東京でも食べられる店はあると思うが、やはり宮古行ってかーちゃんが作ったソーキ汁でなければいけないのである。それは何故か?
そのソーキ汁には、俺が生まれてから宮古を離れるまでの色んな記憶がいっぱい詰まっているからだと思う。一口食べては小さい頃からの畑仕事を思い出し、又一口食べてはお父、かあちゃん、おじー、おばーに怒られた事を思い出し、又又一口食べては宮古を離れたときの宮古空港を思い出し、と宮古を離れるまでの色々な出来事、あるいは自分という人間の元になった何かがそのソーキ汁には凝縮されているんだと思うから宮古行ってかあちゃんの作ったソーキ汁が食べたいと思うし、そういう意味で母親の味は特別なものだと思う。
人それぞれに母親の味というものはあると思うが、昔に比べて、それが持つ意味の重要性というのは薄れているんじゃなかろうか。
今の時代は母親が忙しくて料理を作らなくても、近くのコンビニに行けば自分の好きなものをいつでも買えるし、いつでも食べられる。という便利な世の中にはなったと思うが、それによって失われる物もあるという事に気づかねばなるまい。
親が子を殺し、子が親を殺しと目も耳もふさぎたくなる様な事件が毎日のようにメディアに取り上げられているが、それにさえ慣れてしまい、「久しぶりに、上野動物園にパンダがやってきます」という情報と同じ次元で処理してしまう。
思うに、幼い頃から、母親(父親)が作る、肉体的な滋養だけじゃなく、精神的にも滋養あふれる料理を食していれば、たぶん、大人になっても大きく道を外れる事はないだろう。
宮古テレビ30年の軌跡が記念誌に
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古テレビは、一昨年(平成20年)開局30周年を迎えたそうだ。その軌跡が『宮古テレビ30年の歩み〜開局30周年記念誌』として、んなまがた(このごろ)発行された。
宮古テレビは、当時(昭和53年)NHKしか映らなかった島に、ビデオテープを使って民放の番組(日本テレビ、テレビ東京、テレビ朝日)を異時再送信するという画期的なことを始めた国内でも珍しいケーブルテレビである。
若いころ、宮古テレビに在籍していた縁で、先日私のところにもその記念誌が送られてきた。
いやー、もうなんと言ったらいいか、記念誌の中で書いていた方がいたが、まさにこれまでの道のりは、プロジェクトX宮古テレビ版である。
記念誌は、ハードカーバ仕立てで、設立される前の宮古の放送事情の現状や、設立当初からこれまでのことが写真や資料を使い、刻々と綴られている。
特に設立にこぎつけるまでの、ばかーばかの(若い)赤嶺一成社長(当時38歳!)たちの奮闘、苦労、情熱には、あつーあつのもの(熱いもの)がこみ上げてきた。そっか、あんちぬこと、かんちぬこと(あんなこと、こんなこと)いろいろあったんですね。20歳の私は、そんな苦労などのーまい すさだな(何も知らず)、目の前の仕事をこなすのに精一杯だった。
当時の社員の平均年齢はいくつだったんだろう。たぶん、30歳もいってなかったと思う。民放の番組を放送する以外に、自主番組も制作・放送をする。島のニュースやおしらせ、ドキュメンタリー番組、CM制作等々、十分でない機材の中で、社員もまた熱く走り回っていた。(自主番組は、これまで数々の賞を受賞している)そこには、先輩後輩のような固苦しいものはなく、のびのび自由な雰囲気がいつもあった。これも社長をはじめ、上の人たちがそうさせていたんだということが記念誌から伝わってくる。
しかし、経営危機もあったようで、当時経理を担当した人が書いた文章に、「資金繰りも常に苦しく給与は従業員のみでギリギリという状況だった。初代赤嶺一成社長に私は給与を支払った覚えがない」というのがあり、初めて知る事実に驚いた。
その後、社長は、砂川典昭氏、藤村明憲氏と引き継がれ、宮古テレビはだんだんと大きくなっていく。
そして、今やCS放送にBS放送と多チャンネルを流し、ケーブルインターネット、IPフォンも手がける宮古テレビである。うばうがうばい。(本当にすごい)。30年前のことを考えると信じられない思いがするがこれも、歴代社長をはじめ、社員の皆さん、関係者の皆さんの努力の賜物だ。
記念誌を読んでいると、宮古テレビが島に果たした役割の大きさが見えてくる。宮古のために たんでぃがーたんでぃ という感謝の気持ちも。そして、少しの間(3年)でも、自分も宮古テレビに関われたことをうれしく誇らしく思ったのだった。
今後、また20年、50年と経ち、この記念誌は、ますます意味のあるものになることだろうと思う。
近いうちに、市立図書館等にも置かれる予定とのこと。機会があったらぜひ、ゆみみーるよー(読んでみてね)。
つれづれ
キムキム(平良・西里出身)
年度末・・・私にとって毎年、自分自身をふり返る季節である。
健診センターの検査技師・・・という仕事に就いて18年。最初は目標があったわけでもなく、志を持っていたわけでもない。どちらかといえば、夢やぶれて検査技師でもやるか?で就職してしまったような気がする。
就職後、4年くらいたった頃である。今では師と仰ぐ若い先生に「一緒にエコー検査をやってみないか?」と誘われ、超音波検査を担当するようになってからは、んにゃーだいず、やーまい、ふふぁーまい みばからず(さあー大変、家庭も子供の面倒もみずに)、高校のときより、大学浪人中よりも勉強した。
たかが健康診断だが、されど健康診断なのである。
はじめて自分の手で早期がんを発見したとき、教科書でみた同じ写真が映し出されたモニターに釘付けになり、患者の みぱな(顔)が見れず、なだだだーてぃ いたのうかん(涙を流していたらしい)。あんちーや ならん(検査技師失格である)
翌年、手術を終え健康診断に現れた初老の彼は、「去年、あなたに病気を見つけてもらい元気になったよ〜すこし長生きできそうだよ。ありがとうございました」と若僧の私に頭を下げた。技師冥利という言葉があるとすれば、こういう時に使うのだろうと思う。
この仕事は、どちらかというと病気をみつけることが大部分で、その瞬間は大体、恨まれることの方が多い。
プロ野球選手になるのが夢の真っ黒に日焼けした中学球児は、心臓健診で心臓に穴があいていることが見つかった。今日まで元気で何不自由なく生活してきたのに、健診さえ受けなければこんな辛い思いはしなくてすんだのに・・・健診の結果を告げた時、親子は泣き崩れた。県大会試合の2日前に手術、エースとしてマウンドに立つ夢は叶わなかった。
これまで、たくさんの人達と出会い、検査技師として教えられたことは数限りない。ぷからす くとぅまい、かさます くとぅまい、やまかさあり(嬉しい事、言葉に出来ないほど辛い思い出も多すぎて)、自分の中でも整理できないほどである。この検査が・診断が本当に必要だったのかと医師に相談したことも一度や二度ではない。
かな〜がい がみ(ついこの間まで)、私は治療成績をよくすることが医療の第一の目標だと思っていた。長生きできる治療法こそが、患者にとっても、家族にとっても最良の方法と思った。それが辛く苦しいものであっても、生きるためには力を合わせて耐え、頑張るのが当然と教えられた。傲慢な考え方だと思う。
医療は人の痛み、苦しみを和らげてあげることが本来の姿であり、命にとって大切なことは長さではなく、質であると思う。
私達、医療人は、患者に育てられ、初心を忘れては人を看ることはできない。常に命と向き合い、その手を緩めることは許されないのである。
すでに、ベテランと言われる年齢になり後輩を育てる身ゆえに、せめて、年度末のこの時期に、自分の仕事と静かに向き合っている。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
先日、実家から「アオサ」やら「油みそ」やら「黒砂糖」などが入った小包が届いた。「アオサ」は、今さっき海から取ってきたんじゃないかと思うほど、やーらーやーら(柔らかく)、かばすーかばす(良い匂い)!宮古は、浜下りの季節がやってきたんですね〜。いろいろな地域のアオサが東京でも手に入るけど、やっぱり、宮古のは、格別!味噌汁に入れて味わっています。残りは、あさず(えび)と一緒に天ぷらにしようかね〜。
さて、vol.214は、のーしが やたーがらやー?
naichar-shima久々の登場〜。ばっしらいん(忘れられない)母の味、ありますよね〜。それが食べたいがために、実家に帰るということもあるのでは?息子が小さいころ、親が子どものためにしっかりごはんを作っていたら、子どもは大丈夫だよ。とある人に言われたことを思い出しました。naichar-shimaのかあちゃんは、彼が帰ると必ず、ソーキ汁を作って待っているそうです。
宮古テレビの記念誌を読んでいたら、あの頃のことが パーッと蘇ってきました。番組を作るのも、放送を流すのも何でも手作り、手作業というのが多かったので、ハプニングや失敗も だう(いっぱい)あったなぁ。当時の裏話など、またの機会に、書きみーでぃびゃー(書いてみようかな)と思っています。宮古テレビについて思い出のある方も、ぜひ、その話しを聞かせてくださいね。いろいろあると思うさー。
仕事を覚え始めたころの、キムキムさんの一生懸命さに なだ(涙)が。自分のことのように き゜む(心)を痛めることができるというのは、とても素敵な検査技師さんですよね。検査技師として医療にまっすぐに向き合い、患者さんのことを思っていく姿にも感動しました。「初心を忘れない」こと、大事ですね。
あなたの感想もぜひ、きかしーふぃさまちよー(聞かせてくださいね)
最近、感想メールが少なくて、さぶすむぬ(さびしい)です。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふ〜。
(最後までお読みいただき ありがとうございました)
次回は、3月4日(木)発行予定です!
三線の日」の日ですね〜。民謡の登場もあるかも!どうぞ、お楽しみに〜。
つかー、またや〜。