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くまから・かまから vol. 318

2024 7/15
メールマガジン
2014年6月19日2024年7月15日

こんにちは〜。
全国的に不安定な天気が続いていますがみなさん、がんずぅかりうらまずなー?
今回もいろいろな話が登場ですよ〜。
お楽しみくださいね〜。

目次

三線

マツカニ(上野・高田出身)

琉球民謡に使用される楽器の中で、最も重用な役目を果たしているのは何といっても三線ではないでしょうか? 5〜6百年前に中国から伝わったと言われてますが、はっきりとした年代はわかっていません。

中国から伝来したのは現在の三線より胴が小さく、棹がながい三絃(サンシェン)がルーツだといわれています。琉球で試行錯誤の末に現在の形ができあがったようです。 

そして三線は琉球の人々に愛され、とりわけ上流階級の王族や士族の間でブームになり必須の教養となっていきます。宮廷内には、「三線打」という三線製作職人を束ねる役人も配されるまでになり、三線は重要な楽器となり「宝物」的な存在になっていきます。現在基本的に7種ある三線の型はそういう中で生まれたようです。 

三線制作の名工6人が出現し、その名前が型の名前に冠されました。1番古いと言われているのが「南風原(フェーバル)型」で、「知念大工(チネンデーク)型1710年頃」、「真壁(マカビ)型18世紀後半」、「久場春殿(クバシュンデン)型」「久場の骨(クバヌフニ)型」、「与那城(ユナー)型」、「平仲知念(ヒラナカチニン)型」の7種有ります。

その中で1番太い棹の久場春殿と1番細い棹の久場の骨は久場春殿の作と言われ、天(チラ、ギターでいうヘッドの部分)の曲がりが少なく直線的な作りになっています。

1番美形といわれ多く流通しているのが、真壁型で、開鐘(ケージョウ)と呼ばれる5挺の名器はすべてが、真壁型になります。知念大工は、天の中心が盛り上がって線ができているのが特徴です。与那城は糸蔵が長めに作られ真壁型と並び人気の型です。

三線の構造は木枠に錦へびの皮を張った胴の部分に棹を挿して3本の糸を張ったもので三線用の爪やギター用のピックなどで音を出します。棹は、八重山産の黒木が最良とされますが現在では伐採が禁止され、貴重で高価な素材になっているためフィリピン産の黒木(カマゴンやカミゲンと呼ばれる)が多く使用されています。その他、紫檀、カリン、ユシギなどが、棹の良材になります。沖縄の人々にとって三線は特に思い入れの深い楽器で、三線にまつわる数多くの ぱなす(話)や伝説が残っています。

さて、先ほどの開鐘(ケージョウ)と呼ばれる三線ですが、時の王の御茶屋御殿で、真壁作の三線を集めて弾き比べをしたところ、夜が更けて朝方になり城の開門を告げる鐘が鳴り響いても美しい音色を出し続けた五挺の三線を五開鐘といい、その中でも1番の名器とされているのが1860年に製作された盛嶋開鐘(ムリシマケージョウ)です。

この三線は中城御殿で門外不出とされた王家所有の三線でしたが、戦後行方不明になっていました。戦利品としてアメリカに渡ったと思われていましたが、北谷で見つかり元の持ち主である尚家に戻され県立博物館に寄贈されたということです。

値段をつけたら今では億の値がつくかもしれません。値段はともかく、いい三線の条件としては見た目の美しさ、澄んだ音色でよく音が出る、良材で作られ、反りや曲りが無いなどになると思います。が、いつかは破れる本革と違い永久に破れない人工皮を張った安価でいい音色の三線に出会うこともあります。また人工皮に高価な黒檀の棹の三線を見かけることもあります。

僕が思うに、最終的には使用目的や好みの問題かと思いますが...。

沖縄の三線音楽は琉球王府で奨励され発展した古典音楽と庶民の間で生まれ広まった民謡とに分けられますが、三線音楽を始めた人として「赤犬子(あかいんこ)」と言う人の伝説があります。

この音楽の天才はビローの葉柄に馬の尾を張った三線を考案し村々を旅しながら三線とオモロを広めて歩いたと言われています。しかし中国伝来の三線と同じものを作ったとは考えにくいため、何らかの楽器を持って旅してる間に三線に出会ったように思えるんですが。読谷村には赤犬子宮があり、古典音楽の始祖として奉られているということから信憑性は高いと思うのですが。歴史に関しては沖縄戦で消失した文献も数多くあるらしく三線に関する詳しい事もわからないことが多いようです。

さてさて ばんたが みゃーこー、いつばかーす゜からが、三線む弾きうーがらやーてぃ(私たちの宮古はいつ頃から三線を弾いてるんだろうと)かんがいまいみー、しらびまい みーたー すぅがどぅ、あんしーかんしーてぃや、まーだ、っさいんにば。(考えたり調べたりしましたが、詳しいことはなかなかわかりません。)

昭和の初期に慶世村恒任によって宮古民謡を五線譜にのせる試みがなされたようです。戦前は沖縄の辻の遊女達が いす゜ざとぅ(西里)に来て沖縄民謡や八重山民謡を三線で唄っていたとのこと。それまでに宮古でも三線を弾く人は少なからずいたことでしょう。戦後になって宮古民謡の大家達により宮古民謡の工工四が考え出され、一般に浸透していきました。

何はともあれ沖縄の人々は三線音楽に癒され心の拠り所として幾多の苦難を乗り越えてきました。捕虜収容所においてさえカンカラ三線を作って唄いました。三線は家宝となり文化財に指定され沖縄の人々のステータスシンボルとなりました。三線は沖縄ブームにも乗り日本本土や海外でも普及し沖縄だけで20万挺とも言われるその数はいったいどれくらいになるのだろうか。

沖縄の心と共に三線よ永遠なれ。

#参考図書:『三線のチカラ』沖縄県立博物館.美術館 監修,『三線のはなし』宜保榮治郎 著

◇あの話をもう一度

宮国勉(城辺・西城出身)

「むるすの在る畑の光景」(vol.146 2007/4/19)

今でも帰省すると真っ先に畑を見廻りに行くのが私の定番の行動パタ−ンである。あがずぬぱり(東の畑)、にすぬぱり(北の畑)とぐるりと廻り、ついでに ミルクんみ(ミルク峰)に登り古巣に帰ってきた実感に浸る一時を過ごす。いずぬ あがーたん(西の彼方に)霞む大神島を見ながら小舟に乗って訪れた中学時代を思い出す。

むるすとは畑に根石があって掘りかえせないで、畑から出てきた石などを放り投げている内に雑草が生えて盛り上がり小山になった処のことで以前の畑には至る所にあった。むるすは畑作業には厄介者で、鍬や まーやま(木製の鋤)などの農機具の故障の原因を作り、雑草が生え、作物も育ちが悪い場所である。

最近の畑はブルドーザーやユンボで根石を削り取り、土を盛り基盤整備された理想の、ぞうぎぱり(良い畑)になっている。何も植えてなければ何処の畑も見渡す限り、むるすのない平らな畑となった。昔、むるすで遊んだ者にとっては少し味気なく感じ、残念だと思うのである。しかし、機械化して仕事量を減らし余暇をつくり生活を楽にするには必要な方策であり、懐古主義的と怒られそうである。

以前は畑の根石を割り、取り除く仕事を請け負っていた いけまやー(隣部落の名前)の「めいぶん」と云う人がおりました。彼は「力持ちのめいぶん」で通り、誰もが一目置くほど体力と忍耐と力を持ち合わせていた。作業をしている後ろ姿は見たことがあるが、子供ながらに尊敬のまなざしで見ていた。今でもどの様な道具を持ち、手入れして使っていたかなど知りたいと思うのである。

ぬー(小さな原っぱ)も むるすと似て根石の上に薄く土を被った平らな場所のことで、畑仕事の休憩所や馬を休ませる場所、又は農耕機の置き場となっていた。さとうきびの植え付け時は押切りで長さを切る作業場。麦を作ると足踏みの脱穀機が据えられて脱穀作業場となる。時には兄弟で相撲を取ったり、逆立ちや逆反りを競い合ったりして遊ぶ場所でもあった。

むるすや ぬーにはムトゥビィ(ナワシロイチゴ)、ポー(クロイゲ)がたわわに実り、子供の好きな処でもあった。また、石の隙間からマカヤ(茅萱)が長く生えてそれにガイチン(セッカ)が巣を作り、それを狙って出没するガラサパウ(ヤマカカシ)がスルスルと石積みの中へ潜るのを無理矢理引っ張りだして遊んだりもした。そのとき掴みどころを油断すると、手に汁が付き嗅いでみるとこの世の かざ(香り)とは思えない悪臭を放った。

チヌシャ(コオロギ)やカマキリを捕まえて引き千切って観察した場所でもあった。また、ぬーの草のない地面に3ミリ程の穴を開けて中に住んでいる虫がいる。ガキィナ(メヒシバ)の穂を引き抜いて白く柔らかい方を穴に差し込むと敵または餌と思って食いついて土中より白い虫が引き出される。背中にコブがあり何の幼虫かはいまだに知らない。

砂糖きびは堆肥が多い方が立派に育ち太くて節も長く、丈も長いものとなる。ぬーに自分の畑と称して砂糖きびを4、5本植え、化学肥料を他よりも大量に与えて可愛がった。しかし、肥料が多すぎて、それが仇となり枯れてしまうはめに成ったりした。やはり、物事には適度が必要であることを認識させられた。サツマイモは痩せた土地の芋が美味しいのが出来るそうだ。そこで、ぬーの マカヤ(茅萱)を取り除き開拓者に成ったつもりで耕し植えた。それは小粒だがふっくらとした芋が採れ家族に喜ばれた。

生活していると周辺のなにか特徴をつかみ場所を表す名前になったようである。我が家の畑も、がんぱらばり、がんぬやーばり、むとぅぬまい、などの呼び名がある。がんぱらばりは「がんぱらしゅう」と云われるおじいが所有していた畑から付いた名前らしい。「がんぬやーばり」は、昔の霊柩車(がんと云う)の保管場所から、また、「むとぅ」は、自分の家のお墓で、その前に在るからである。

今では方角で あがずぬぱり(東の畑)、にすぬぱり(北の畑)と呼ぶようになった。がんぱらばりの響きにはどこか楽しい響きを感じる。家から近いせいかその畑には野菜を植えることが多かった。つだいくに(人参)、うぷに(大根)、たまな(キャベツ)、くだんさ、なすぴぃ(茄子)、ぴず(にんにく)、うず(きゅうり)等を作り自給自足であった。

結婚式

Motoca(平良・下里出身)

1月下旬の入籍から約4ヶ月半。沖縄で、両家の家族のみのちいさな結婚式を挙げてきた。梅雨がまだ明けず雨続きだったという沖縄はその日、ぞー わーつき゜(良い天気)になった。

当日、式場となる恩納村のリゾートホテルから みーた、いむまい、てぃんまい、おーおーとしー(そこから見た海も空も青々として)、パンフレットで見たとおりの美しい輝きを放っていた。あば?私は雨女だったはずだのに。

式の前に、アルバム用の撮影のためにホテル前のビーチへ出た。私にとっては見慣れたはずの沖縄の海でも、この時期にこんなにきれいな海・空・砂浜の色が見られる確率を考えると、天に感謝せずにはいられない。夫が晴れ男なのである。そういえばこの人は、宮古に来たときも天気予報を覆していた。宮古に引き続き沖縄の神様にも好かれたようである。夫よ、まいふか(あんたはえらい)!

ホテルに戻り、チャペルでリハーサルを行い、いったん控え室に戻った後、いよいよ本番。

チャペルのおもてには、ばんたが うやんまが 待ちうたー(チャペルの入り口には、私の両親が待機していた)。あー、ドキドキ。父はこれから私と まーつき(一緒に) バージンロードを歩く。母には、サプライズで役割が用意されていた。チャペルに入る前に、私のヴェールを前に降ろす役である。スタッフさんの説明を受け、二言三言交わした後、ヴェールをおろしてもらう。母は既に なき゜うたー(泣いていた)。思わず、私ももらい泣きしそうになる。おーい、本番は んなまからど(今からだよ〜)。母がチャペルの中で席につき、ほどなく結婚式が始まった。

扉が開き、まずは新郎が中へ。いったん閉じた扉の前で待機する私と父。ドレス用の厚底パンプスのせいで、私は父よりも背が高くなっている。隣で、人生初のモーニングを着こんでいる父は、どうしたら良いかわからない、というような表情をしている。ふたたび扉が開く。父と腕を組んで、一歩ずつ、バージンロードを歩く。この歩き方もまた儀式、この手順が結婚式なのか・・・。

参列者だった時には考えたこともなかったが、牧師の発する一言一句が言霊のように意味を持つ、祝詞だと感じる。賛美歌を歌い、夫と指輪を交換し、結婚証明書にサインし、近いのキスを・・・と、キリスト教で決められたしきたり通りに進められるこの儀式をとおして、「結婚」という状態を実感する。あぁ私、市役所に婚姻届を提出しただけではまだピンと来ていなかったんだなぁ。

同居して半年あまり、入籍して4ヶ月半。改めて、これからの人生に思いを馳せる。この人と、ずっと、まーつき あす゜き ぴす゜(一緒に歩いて行く)・・・。

外の天気のように、気持ちは晴々しい。式を終え、チャペルを出て振り返ったら、先ほどよりも青みを増した海と空が見えた。ちょうど、太陽が一日で最も高くなる時間帯である。目を開けていられないほどの みぽとさ(眩しさ)のなかで、参列者の集合写真を撮影した。いろんな意味でまばゆい写真になった。

かくして無事、結婚式も終了! チャペルから見えた海の強烈な色とともに、思い出深い式となった。写真を整理しながら、いまだ余韻にふけっている我々夫婦である。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

3月下旬に宮古に移り住みましたが、東京で郷友会の仕事がまだあり、宮古、東京を行ったり来たりしています。先週土曜日に上京。久しぶりに東京からの発行となりました。東京は今あじさいの花がきれいです〜。アンズの実も鮮やかに実っています。

宮古では、なびがーす(クマゼミ)が鳴きはじめました。カメラにおさめようと姿を探すも とみらいん(見つけられず)。ムムム。やらうぎー(テリハボク)の白い花もたくさん見られます。マンゴーも出始めましたね。観光客も多くみられるようになってきました。梅雨明け間近。夏はすぐそこまで来ている感じがします。

葉タバコの収穫も終わり(夫は宮古の人よりも、ふっふぉーふふぉ(真っ黒)になり、体重も減、農業はダイエットにいいみたーい。でも変わらない私って・・・)、時間の余裕がでてきました。池間島に行ったり、海に行ったり、宮古病院の木々を見に行ったりと自然を楽しんでいます。掲示板にその時々の写真を載せていますので、良かったら みーみーるよー(見てみてくださいね)。

さて、今回の くま・かまぁ のーしがやたーがらやー?

今回のマツカニさんのお話は、民謡解説ではなく、三線についてでした。身近な三線ですが、その歴史や種類など知らないことが多く、へぇーと思うことがいっぱい。喜びも悲しみも奏で、人の心に寄り添ってきた三線ゆえ、多くの人を虜にしているのかもしれませんね。最後の言葉が胸に響きました。

宮国勉さんの当時の風景の描写は、郷愁をそそりますね〜。眼差しが細部に注がれていたのもよく分かります。植物の方言名なども詳しく書かれていますので、資料として役に立ちますね。「むるす」自体がなくなると、その言葉も消えてしまいますね。心に刻んでおきたい風景だなーと思います。

Motocaさん、いよいよ結婚式!(入籍までの話は、vol.310で)ここでも天から祝福された結婚式だったことが伝わってきましたね〜。「沖縄初訪問となる夫の両親の招待もかねて、挙式会場に沖縄を選んだのですが、高齢のうちのばぁちゃんに花嫁姿を見せることもできて、本当に良かったなぁと思います」とMotocaさん。いつがみまい(いつまでも)お幸せに!

貴方はどんな感想を持ちましたか?ぜひ、お聞かせくださいね。 

今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい、すでぃがふー!
(最後まで お読みくださり、ありがとうございました!)

次号は、7月3日(木)発行予定です。
きゅうまい、佳き日でありますように!
あつかー、またや〜。

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