こんにちは〜。暑い日が続きますねー。 がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
今回も、いろいろな話題をお届けしますよ〜。
vol.320 お楽しみくださいね〜。
種子島にもあった『ヨンシー踊り』
クイチャーマン(下地・与那覇出身)
『くまから・かまから』Vol.266(2012年4月19日付)https://miyakojima.jp/kumakara-kamakara/vol-266/ のなかで私が「在沖与那覇ヨンシー保存会の発足」という題で投稿してから2年余りが過ぎました。その後のヨンシー交流や、調べてわかったことなどをお伝えすることにします。
1999年に発足したふるさと与那覇の「与那覇ヨンシー保存会」と結成3年目の沖縄本島の在沖保存会の交流が盛んになっています。昨年夏の「サニツ浜カーニバル」の日程のアトラクションに、沖縄本島から8人のメンバーが参加し、与那覇の保存会の皆さんと一緒に与那覇のヨンシーを踊りました。
その後、今年4月の沖縄宮古郷友連合会の「第27回芸能まつり」が那覇市民会館で開かれた際、与那覇の保存会から10人のメンバーが駆けつけ、総勢25人で目を見張る演舞を披露しました。
「おごえー、あんし うぽーさ うぐなーり ぶどぅす゜っかー まーんてぃー ずみ いら」(おお、このように大勢そろって踊ると、本当に素晴らしいね)との声が客席から寄せられました。大きな舞台で踊るときは「数は力」となります。
そして、今月27日に開かれる「サニツ浜カーニバル」に、今度は沖縄から11人が参加する予定です。くとぅっさ ばんめー いかでぃ どー(今年は私も行くよー)。本番の前の晩は交流会も開かれます。ゆなぱふつをばんみかして(与那覇の方言を轟かせて)語り合うのは意義深いことです。
ところで、先ごろ、指笛の指導で沖縄本島北部の東村の学校を訪問した時、学校の所在地である字川田で継承されている「川田の国頭サバクイ」のことが話題になりました。
「私のふるさとでは『与那覇のヨンシー』として昔から踊られていますよ」と話したら、秋田県出身というPTA会長のSさんが身を乗り出して「え、ヨンシーですか、本当ですか?」と声を上げ、直後に「繋がったー!」と嬉々とした顔で発しました。
仕事で種子島にも数年住んでいたという彼は、そこで見た「種子島のヨンシー踊り」と「川田の国頭サバクイ」の関連性が分からないままに過ごしてきたが、私の一言で「繋がった!」というのです。種子島にも「ヨンシー踊り」があることに半信半疑、私もびっくり。二人のヨンシー談義は熱くなりました。
その後、インターネットで「種子島のヨンシー」を検索すると、YouTubeの映像での紹介もていねいにされているのを拝見。古い歴史と伝統が感じられ感動しました。西之表市の無形文化財にも指定されているというので、役所に問い合わせて、その継承・保存に当たっている地域の方とも電話で話し合うことが出来ました。
西之表市のホームページには種子島の「ヨンシー踊り」について、「種子島で唯一琉球芸能が伝えられています」「今から約160年前庄司浦の祖先が、船乗りとして琉球旅をするうちに琉球の方から習ったものを、故郷へ帰り踊り始めたものと言われています。琉球では、国頭サバクイといわれるものです」などと詳しく書かれ、歌の歌詞のほか、踊りの様子なども写真入りで紹介されています。「国頭サバクイは種子島の庄司浦が北限です」とも書かれており、文化財に指定するためにかなり調べたと思われます。
前回の『くま・かま』の原稿で、私は下地の与那覇、上地、洲鎌、それに城辺の保良と、4つのヨンシーが知られていると書きましたが、その後多良間にもヨンシーがあることがわかり、今回の「種子島のヨンシー」と、好奇心が強くなっています。
宮古圏域以外では「国頭(くんじゃん)サバクイ」の踊りと呼ばれていると思っていたのに、はるか離れた種子島で160年も前から宮古と同じ「ヨンシー」とよばれて、歌われ、踊られていたとは思いもよりませんでした。
種子島のヨンシーは、現地に行って、あてぃ みーみーぶす むぬやっさー(とても見てみたいものだねー)。「ヨンシー」の広がりや繋がりなどと併せ、各地に伝わる国頭サバクイの踊りについても、調べてみると新しい発見がありそうです。
◇あの話をもう一度
マツカニ(上野・高田出身)
「宮古民謡どぅかってぃ解説 平安名のマチャガマ」vol.128 2006/7/20
その昔 宮古の平安名村というところに マチャガマというあぱらぎで(美人で)すなかぎ(品のいい)女性がいました。彼女は村中の男性の憧れを一身に集めたマドンナでした。マチャガマは ぶんみゃー(旧藩時代の番所。宮古上布を織らされた場所でもある)の役人達にも人気があり、役人達は先を争ってくどいていました。それに嫉妬した村の青年達(今の高校生くらい?)が、高嶺の花になり、手が届かなくなりそうなマチャガマをあること無い事噂をし、からかっている様子が歌われています。
1ハーレー マチャガマや んざんかいてぃが ずまんかいてぃが からずば きっち き゜んば き゜し すぅがりうす゜が (マチャガマは どこへ出かけるつもりで 髪をとかして 晴れ着を着て おしゃれをしてるんだろう? スゥーリ スゥリヌ ヒヤルガヒー(ハヤシ 以下省略) 2ハーレー マチャガマや ぶんみゃんかいてぃどぅ しゅがやんかいてぃどぅ からずば きっち き゜んばき゜し すぅがりうす゜っつあ (マチャガマは ぶんみゃーへと 役人のところへと 髪をとかして 晴れ着を着て おしゃれしてるんだってさ) 3ハーレー マチャガマが いたんむばら かぎむぬびゃんてぃどぅ ちゅらむぬびゃんてぃどぅ うむいやうたす゜すぅが (マチャガマの 下着は きれいなものだと 美しいものだと 思っていたいたんだけど) 4ハーレー あがす゜ぬ いんうてぃ ばりゅたす゜ふにぬ あかもうしんぬどぅ てぃびす゜あぬ ぷい ういびぬ ぷい うすぅいまありゅす゜っつあ (東の海で 割れた舟の 赤い敷物を手のひらの大きさ 指の大きさ 覆っているんだってさ) 5ハーレー マチャガマが いたんぬ ぶうゆば ぬぬぶうびゃんてぃど いちゅぶうびゃんていどぅ うむいやうたす゜すぅが (マチャガマの 下着の紐は 布の紐か 糸の紐だと 思っていたんだけど) 6ハーレー あがす゜ぬ いんぬ ぱまかっつぁうどぅ にぃすぅいすぅいすぅい ぱあすぅいすぅいすぅい なないやまき やいやまき からみまありゅす゜っつあ (東の海の 浜かずらを 根っこごと 葉っぱも添えたまま 七重八重に巻きからめているんだって) 7ハーレー マチャガマや あぱらぎかいばどぅ すなかぎかいばどぅ ぶんみゃぬ しゅうたあん うぷうやしゅうたあん たらさりうす゜っつあ (マチャガマは 美人で品がいいので ぶんみゃーの役人達に 口説かれて いるんだってさ)
宮古民謡では変拍子の曲が多いんですが、この、マチャガマは変拍子のオンパレードで、何拍子の唄なんだか僕にもわかりません。メロディは、1・2・4・7が同じ、3・5がおなじ、6番は字余り、メロディあまりになっております。・・・っとここまで書くと、ものすごい難曲のように思われそうですが、流れがすごく自然な感じになっていて、それほど違和感が感じられません。三線は2揚げ調子で、ポジションの移動が多く、うまく流れができるまでは練習が必要だと思います。
この平安名のマチャガマには、本調子の歌もあります。2揚げ調子が大正演歌に通じるような曲調であるのに対し、本調子は、いかにも宮古民謡らしい曲になっています。内容はほとんど一緒です。調子のちがう2曲があるなんて、マチャガマがいかにモテたかがわかりますね。
それでは、くまかまのマチャガマ達、次回まで。
御嶽は出来たり、消えたりするものだ
宮国優子(平良・下里出身)
先月、宮古に行って参りました。調査というか、私はほとんどよくわかっていないため、研究者の先生方や作家先生のあとをただただついて行くだけですが・・・。今回は、集落の地元の人に狩俣や飛鳥御嶽、大和御嶽などを案内してもらいました。
プライベート以外で御嶽に行くことに、私自身は、なんとなく違和感がありました。島に住んでいた頃、自分に関係する御嶽には行ったことはありますが、よその御嶽には行きませんでした。例外があるとすれば「あんたの病気には、ここの御嶽がいいと連れて行かれた以外、ほとんど御嶽に近寄ったことはないです。なんでかな〜と思い返してみれば、それは当然のローカルルールであり、暗黙の了解であり、親からもむやみやたらに近寄らないように言われたからだと思います。
ですが、漲水御嶽やアツママは実家から徒歩圏内だし、親も足繁く通うので、ぴるます(不思議だ)と思わず、よく行っていました。あば、よく考えれば名前には御嶽が付いているのに、大きすぎて、神社風すぎて、御嶽のひとつとも思ってなかったってば。でも、今では「御嶽」という言葉を聞くと、趣きのある秘やかな聖域を想像してしまう。海のそばだったり、ただの空き地みたいな場所だったり、いみっちゃの(小さな)目印がしてあるだけの。とても個人的なものを。
今回、仲宗根將二先生が「宮古に御嶽は900あるよ。数えられる分だけど」とおっしゃっていた。山手線の内側の大きさしかない宮古島に900とは、信号より多いんじゃないか・・・。「御嶽は出来たり、消えたりするものだ」とおっしゃっていました。その言葉が何故かストンと腑に落ちました。「御嶽に近寄ってはいけない」というローカルルールにも関連しているのかなと感じました。
いわゆる漲水御嶽やアツママ御嶽は、観光地化したとはいえ、島の心の玄関のようなものだと思います。多くの旅人も受け入れる受容度の高い御嶽。たいてい街中にあります。下里出身の私はそれを見慣れていたし、それはまるで公私の「公」。そして、また少し小さな御嶽は地域の御嶽。さらに小さな御嶽は、公私の「私」の部分の御嶽。ひっそりと祈る人がいたのだと思います。極めて個人的な祈りを捧げていたのだと。それを島の人は、近づいてはならない御嶽と言ったのだと思います。
「御嶽は出来たり、消えたりするものだ」という言葉の意味は、その個人一人一人が亡くなったりすると消えていくものということらしいのです。でも、その後を娘や孫がまた祈りに来る場合もある。それは脈々とつながることもあれば、つながらないこともある。それが御嶽なのだ、と。
親の教えでもあり、島のローカルルールである「御嶽に近づくな」は、イコール「粛々と祈る人の邪魔をしてはならない」なのかもしれません。そして、祈りにはたくさんの種類があるはずです。感謝の祈りもあれば、きっとそうでない祈りもあるかもしれない。それが人間の根源に近いものだからこそ、激烈であるにちがいない。その強烈な感情を持つ人には触れてはならない、ということなのでしょうか。
勝手な解釈ですみません。昨今は、探検のような気分で御嶽を巡る方々もいるそうです。でも、そこは地域の庭のような御嶽もあります。ましてや、小さな御嶽はよりプライベート空間。人の庭にも家にも、勝手に入ったダメさいがよ。でも、地元の人とご縁があって「入れ〜」と言われた庭や家は入っても良い気がする。
先にも書いたように、私自身も今回案内して頂くまで、よその地域に足を踏み入れたことはありません。脅されて育ったので、うとるす(怖い)という気持ちが先に立ちます。でも、宮古の神様も人のご縁には、渋い顔はしなさそうなので、ご縁があれば拝むことは何ら悪いと思えません。一概に「御嶽に絶対入るなよ!」というわけでもないと思います。
地域の御嶽は歴史的に鳥居が備え付けられてあったりするので、観光客からすれば、信心深い人ほど神社気分で詣でたくなるかもしれません。鳥居の存在は、誤解されてもしょうがない部分はあると思います。でも、それは宮古の歴史を知れば、本土と同じ意味があるとは思わなくなるはずです。他の国では、日本の統治下時代につくられた鳥居を壊すということは歴史上あったようです。国家が他国を侵略するときは、その場所や地域の住民の精神のよりどころにわかりやすい建造物を建てるそうです。ですから、その時代の背景や事情を考えれば、日本が彼らの精神をないがしろにして作ってしまった鳥居を壊す気持ちになったのも当然かもしれません。
宮古の御嶽にある鳥居は、なぜ残っているか。理由はわかりません。今度、ぜひ調べてみようと思います。場所によってはとても立派です。確かに壊すのはかなり難儀そうです。でも、私は壊さないでいる宮古の人の気持ちがなんとなくわかります。
「心までは奪えない」と思ったのではないかと思うのです。どんなに外見が変わっても、どんなに外からの文化の流入があっても「宮古は宮古なんだ、宮古の人は宮古の人なんだ」と思っているに違いありません。少なくとも私はそう思います。消費されたりするほど、宮古の心はヤワじゃない。もっと柔軟で、もっと自由で、あららがまな宮古の人を私は やまかさ(たくさん)知っているからかもしれません。そして、ご神体のない宮古の御嶽を拝んで、ますますそう思いました。心は形ではあらわせない、と主張しているような。
今回はいろんな事を考えながら、宮古島をウロウロしました。本土出身の人たちから「これはどういう意味があるの?」と率直に聞かれて、毎度答えに窮しました。でも、宮古の風に吹かれて、宮古の土の上に立って、少し落ち着いたら、スラスラと答えられました。あくまで私見ですが。
宮古の愚直な心が呼び起こされた旅でした。勿論、あらゆるところで裸足になりました。島の子ですもの。いきなり海に入ったりすると「宮古馬といっしょさいが!」とからかわれました。して、気持ちいいのにな〜!ねぇ、松谷さん!一緒にザブザブと入ったのが、まるで昨日のようのことです。あがい、ホームシックゆ。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
前号を発行してすぐ東京に向かいましたが、今回は発行前日、宮古に帰ってきました。空からみる宮古は、青々として だいずきれいでした。
台風8号の時は東京にいました。沖縄本島など大きな被害がでましたね。お見舞い申し上げます。宮古は、避難勧告や特別警報とこれまで聞いたことないようなのが出て、びっくりでしたが、大したことなく、何よりでした。
7月6日、東京上野では、梅雨の晴れ間の中、第40回関東宮古ふるさとまつり(主催:関東宮古郷友連合会 共催:宮古市村会)がおこなわれました。午前は、なりやまあやぐ国際コンクール、午後からは、宮古からも長浜政治副市長をはじめ、7名の方がいらっしゃり、各郷友会、クイチャーパラダイスの歌や踊りで盛り上がりました〜。宮古の人は、どこーにいても、宮古のことを思い、宮古から いず(元気)をもらっているなーと感じました。
7月12日、宮古では「第21回鳴りとぅゆんみゃーく方言大会」がまてぃだ市民劇場で開催され、今年も大いに沸いたようですね。なんと、フランスの方も登場して、流暢な方言を披露したとか。おごえー、びっくりですね。聞きたかったぁ。来年こそ、絶対行かなくちゃ。
さて、今回の、くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
クイチャーマンさんの「種子島ヨンシー」の話、興味深かったですね〜。PTA会長さんとクイチャーマンさんの驚きが目に見えるよう。160年前からというのにもびっくり。それにしても「国頭サバクイ」は、たくさんの地域の人を虜にしたんですね。サニツ浜カーニバルでの踊りは27日の午前9時15分からだそうです。ぜひ、お出かけください〜。
「平安名のマチャガマ」、軽快で楽しい歌ですよね〜。その意味あいがよく伝わってきました。宮古らしい光景が表れている感じがしますね。今の しーにん(青年)たちもやりそう。(笑)この曲、ライブなどであまり聴かないのは変拍子だから!?くま・かまのマチャガマたちは、聴きたいと思っているはず〜。マツカニさん、いつかライブで!
優子さんたちに同行させてもらって、知らないことや場所に新鮮な気持ちでいっぱいになりました。同じ宮古でも地域の人と まーつき(一緒)じゃないと行けないところありますね。優子さんの御嶽についての説明になるほどと思われた方、多いのではないでしょうか。私も膝を打ちました。して、海に行けば、泳がずともザブザブ入るさね。(笑)
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい、すでぃがふー!
(最後まで お読みくださり、ありがとうございました!)
次号は、三週間後8月7日(木)発行予定です。
夏バテしないように気を付けましょうね〜。あつかー、またや〜。