こんにちは〜。
全国的に寒さが厳しくなっていますが、がんづぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
今年最後のくま・かま。ホットにお届けします。
お楽しみくださいね〜。
ご一緒に『んきゃーんじゅく』(3)
さどやませいこ(城辺・新城出身)
ぞーかり うらまんな(ご機嫌いかがですか)
んにゃ(もう)季節は12月。時が経つのが あてぃ ぴゃーかりば(とても、早いので)、くとぅすまい(今年も)あとぅ ぴっちゃがま(もう少し)。きばりゅーてぃ(頑張って)かぎぃ とすゆ(良い年を)迎えたいものだ。
今日は、宮古島がどうやってできたかーという創世神話で、天の神様が娘をつかわして島を創り上げ、人々を増やしていったという話です。
んきゃーん(昔)なぁ、みゃーくずま(宮古島)は、ごつごつした岩だらけの島だったそうです。神さまは自分の娘を呼んで、下界に降り島づくりをするよう命じました。
娘は父親の命令なので仕方なく宮古島に降り立ちました。ところが、岩だらけの何もない島です。娘は天に戻って神に伝えました。「あんな所で何ができましょうか」。神はさっそく土を降ろすことにしました。
島は夜から朝にかけて、想像もつないような閃光がマンマンと照り、雷がバラバラと呻りをあげ、雨も降り、一晩中激しく鳴り響きました。そうして、翌日は何事もなかったかのように朝日が柔らかくふりそそぎ、島は一面赤土で覆われていました。ところが、赤土だけでは作物は育ちません。そこで娘はさらに黒土を所望しました。こうして環境は整いました。
さらに娘は、作物の種をもらうために天に昇りました。天の父はいろいろな種を分けてあげましたが、一つだけどうしても分けられないという種がありました。それは、きぃん(黍=きび)でした。娘は庭先に干してある きぃんの種を見つけ、こっそり いたん(女性のパンツ)の中に隠し持って来ました。こうして、数々の穀物の種を植え、徐々に島作りをしていったそうです。
ある日、娘は天の父に呼ばれ、「お前も年頃だから、相手を見つけ、子孫を増やしなさい。これから島に降りて、最初に出会った者を夫にしなさい、決して外見にこだわるでないぞ」と言われました。
娘は、さぁ大変なことになったと思って島に降り立つと、なんと小さな男(神)に出会ったので、この男を夫にして宮古の人口を増やしていったということです。うすか(終わり)
んきゃーんばなすには、私たちが想像つかないような話がたくさんあります。今の若者たちは「アリエナーイ!」と言って相手にしないかも知れませんが、私たちの先祖は、あらゆる体験をしてきたので、現代のCGにも勝るような想像の世界を繰り広げることができるのです。
次回は、みどぅん(女)が とぅなか(卵)を産んだ ぱなす(話)、アリエナイ?ぴるます むぬや(不思議だね)
おしらせ
松谷初美(下地・高千穂出身)
■『宮古島の民話百選』<下>発売
昨年の夏に<上>が出版されて一年あまり。先月、さどやませいこさんから『宮古島の民話百選』<下>が届きました。
表紙には、おばあとお孫さんと思しき子どもが手をつなぎ、だいばん(大きな)夕日を見ている姿が描かれています。(表紙や裏表紙、中の絵もせいこさんが描いています)雄大な自然の中でかけがえのない時間が流れている風景のように感じます。
よく知られている「蛇と生き水」の話や「通り池の継子台」の話。「南京虫とノミとシラミの話」などの うむっし(面白い)生き物の話。来間で毎年行われている「ヤーマスプナハ」のお祭りのことが語られる「来間の祭りのはなし」など、いろいろな種類の ぱなす(話)、50話が入っています。
せいこさんからのメッセージを紹介します。
スマ(島)の宝、共有財産に!
昨年夏、<上>として出版しました『宮古島の民話百選』は、今回<下>の50話を追加することで完結いたしました。もちろん、宮古島の民話がこれだけというわけではありません。たくさんある中で、特徴的な話柄を紹介しました。いま、社会は宇宙から送られてくる電波を通して、情報手段が画期的に開発され、地球という星が一つの共同体のような感さえ受けます。ところが、未だ戦争が無くならず、お互いの国が戦々恐々としているのはなぜでしょうか。文字を持たない頃から語り継がれている民話の豊かさを、多くの子どもたちに伝えていけたら、と思っています。
裏表紙は、せいこさんが30数年前に出会った話者の佐和田カニさんが描かれていて、想いが伝わってきます。天国のカニさんも、ぷからっさして(喜んで)いることでしょうね。宮古の各地の話が一同に集められ、豊かな世界を作り出しています。上下合わせてぜひ、ご覧ください。
◇あの話をもう一度
R(平良・西里出身)
「形見」(vol.186 2008/12/18)
靴に入ったお菓子とまりつき用のゴムまりが私が やらびぱだ(小さかった頃)のクリスマスプレゼントでした。サンタクロースを見るため遅くまで起きようと頑張ったのですが、一度もサンタクロースの姿は見ることはできませんでした。
それから40年余りの時間が経って、私は、母の入院していたホスピスの病室の壁に20個の靴に入ったお菓子を飾りつけました。それはおばあーであるかあちゃんから んまが(孫)20人分のためのクリスマスプレゼントでした。
おとーの一周忌を間もなく迎えようとしていたかあちゃんは、「背骨に癌がある」と診断され、子どもたちが過ごす沖縄本島に宮古から移ってきました。癌に冒され、ボロボロになった背骨に金具を添える手術をした後、ホスピスでの療養生活を送りました。
ベッドで動けない体になりながらも んまが(孫)や小さな曾孫たちが来ると、何かあげられる物はないかと気にかけます。成人した んまが(孫)が、ボーナスをもらったといってかあちゃんに小遣いを持ってきた時もかあちゃんは、千円札に換えてもらい、んまが(孫)や小さな曾孫たちに配りました。
そんな様子を見ていて、私から母へのその年のクリスマスプレゼントは、んまがや曾孫たち用の靴に入ったお菓子にし、それを病室の壁に1個1個、飾りつけたというわけです。
看護師の皆さんもビックリするくらい賑やかな壁になりました。んまがや曾孫たちが来ると壁から外し、母からのクリスマスプレゼントとして配り、喜ばれました。
母は、11ヶ月の時間をホスピスで過ごし、天国へ逝きました。
母が死んだ後、私は、たうきゃー(一人)の時間があるとしばらく泣き続けました。そんな私を見て、小学2年生だった娘が、どうして泣いているのか尋ねてきました。
「おじいちゃんの看病が終わって、おばあちゃんはこれから自由に過ごせると思っていたはずなのに何もできないまま死んでしまったのがかわいそうだ」と応えると娘は「そんなことないよ。おばあちゃんは、病院の看護師さんたちを喜ばせてあげていたでしょう。おばあちゃんはちゃんと人の役にたっていたよ。」と言うのです。
思い出しました。その日の母の担当ではない看護師さんや介護士さんたちが、出勤するとまず母に会うために母の病室を訪ねて来るのです。皆さん、母の笑顔に癒されるといって。
娘の言葉に、寝たきりで何ひとつ自由がきかない体になり、下の世話までやってもらっていた母が、人の役にたっていたことに気づかされました。
おとーが亡くなった時は、おとーのことを知らなさ過ぎることに後悔を覚え、ずっと繋がっていたいとの思いで、お正月におとーが着ていた着物を形見としてもらいました。その着物から いみっちゃぬ(小さな)かばんを作り、かあちゃんの棺に入れました。
かあちゃんの形見は、私にかあちゃんの偉大さを教えてくれ、私を支えてくれる娘たちです。そして自分自身が存在していることが、おとーとかあちゃんと繋がっていることなのだと感じます。
娘は、かあちゃんから最後にもらった千円札をおばあちゃんの形見だといって使わずにサイフにしまったままにしています。
まもなく今年もクリスマスがやってきます。
靴に入ったお菓子で飾られた病室の壁の風景と、かあちゃんの笑顔を思い出しています。
わー(豚)とぅ白菜
ワタリマリ(上野・宮国出身)
冬がやってきた。内地に住んでいると、この時期晩ご飯は鍋で・・・となってくる。我が家もご多分にあらず今日も鍋と来た。その中でも夫が得意なのが、わーとぅ(豚と)白菜鍋である。略して「ぶたはくさい」という考えなくても白菜だけ切っておけばすぐできる。
材料は、わーぬ(豚の)三枚肉、白菜、厚揚げとうふ、中華めん(乾麺でも生でも)調味料もシンプル。水・酒・醤油・うまみがほしければ市販のだしとなるもの調味料をあわせて火にかけ、沸騰したところへ(ここからが夫のこだわり)わーが先、次にとうふ、麺・白菜の順に入れる。白菜がしんなりしてきて、夫の食べていいぞ!の掛け声でいただきます。この掛け声までの待ち時間が結構長いのだ。
この鍋の楽しみは何と言っても中華めんだ。ある時、宮古のそばと中華めんは似ているからと宮古そばを入れてみた。結果みんなが皆、あわんあわんと口をそろえた。宮古そばは次から却下であった。
でも私はあきらめない。味付けをなんとか変えて宮古そばを入れてもグーとなるような、わーはくさい鍋を作ってみせるぜと口をとがらす。だって宮古そばのつゆは、わーの出汁だから。
煮えてくるのを待っている間にそんなうんちくを述べると、まったく料理を分かってないと夫は言う。そもそもこれは沖縄料理とは別の味付けなんだと。でも中華だ。と私も引かない。じゃあ中華料理と沖縄料理はいっしょか?と夫・・・ちょっと違うけれど気持ち的にはいっしょと私。
っていうか「ぶたはくさい」は日本料理でも中華めんを入れたところでもう立派な中華料理だ。でしょ?だから宮古そばってことにはならないと私の主張はボツ。あとはそばをすすりながら別に中華だろうが和食であろうが沖縄であろうがとにかくおいしいね、と家族の顔はほころぶのだが。
子が小さかったひと昔は、宮古を語れば熱くなる私と料理通の夫とで宮古そばを前に戦っていた。わーぬ脂身は嫌いだの、白菜はもう少し小さくだの、めんが固い、いや固いのがいいんだ、だのとテレビでしているような家族で鍋を囲む風景があったがそれも今はむかし。ひっそりと素朴にふたりで、わーを食べている。
二人になると途端に待ち時間が短くなった気がする。すぐ煮えてすぐ食べられて、もともと会話が少なかったのにもうほとんどない。聞こえてくるのは二人のすする音だけ。
ポツンという「わーふぁいや」(豚をよく食べますねの意味だが、嫌味っぽく)へ?と夫が眉間にしわを寄せる。少し笑いがあってもいいじゃない?うぷばたしゅう(腹デカおじい)。
あれから宮古そばでの「ぶたはくさい」は忘れられているのだが、会話を取り戻すためにまたやってみようか。
と、タイミング良く宮古そばが送られてきた。では早速と今日の豚白菜の麺は宮古そば。夫ももう文句は言わない。どう?「ん、あうねえ」。どうやらずいぶんと味覚が変わったようだ。調子狂っちゃうなあ。はい、これで会話うちきりです。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古での住所が決まって、やっとがま住民票を移しました。そして先日、市立平良図書館に行き、利用カードを作成。カードをもらってびっくり!男女が、ばそう ぎん(芭蕉の着物)を着て浜辺で踊っているかわいい絵が描かれているのですが、描いたのはなんと、くま・かまライターの根間(幸地)郁乃さん!オゴエ―。郁乃さんは絵の才能もあったんですね。平良図書館の入口には、原画も飾られていました。図書館には、新刊本もやまかさ(たくさん)!北分館は郷土資料が豊富ということなのでこれから楽しみです。
12月15日(日)は、よしもと南の島パニパニシネマで開かれた「AKAAKAスライドショーツアー2014in宮古島」に行ってきました。赤々舎(出版社)に関わりのある、11名(石川直樹さん、浅田政志さん、沖縄出身の石川竜一さん他)の写真家の皆さんが来島され、スクリーンに映し出された写真を本人が解説するという内容。宮古にこんなにたくさんの写真家の方たちが集まるというのは、たぶん初めて!?(ありんこ文庫の池城かおりさんが石川直樹さんと知り合いで実現したようです)。写真もすごかったですが、個性あふれる皆さんのお話もとても良かったです。なんともぜいたくな時間を過ごしてきました。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
せいこさんの「創世神話」の話。女性が島を創ったというのは宮古らしいというか、すごく納得しますね。黍を いたん(女性のパンツ)の中に入れて持ち帰ったというのはとてもリアル。宮古のたくましい女性の象徴のようでもありました。次回の卵を産む話も楽しみですね。
「宮古島の民話百選」<上><下>は、宮古の本屋や図書館でも手にすることができます。ぜひご覧くださいね〜。
Rさんの「形見」の話は、クリスマスシーズンになると思い出します。6年前に読んだ時と、実家の年老いた両親を つかふがま(間近)で見ている今では、言葉のひとつひとつがまた違う重みをもって感じられました。年を取るということ、誰かの役に立つということ。考えさせられますね。
出身が違うと味つけや材料・・・違うことありますよね。ワタリマリと似たような経験、ばんまい ありさーい。(私もありますよー)。冷やしそうめんのつゆの味の違いとかね。(笑)でも長年の間に好みは近づいたりして。豚白菜に宮古そば、温まりそうですね。やってみようっと。
今回の感想もぜひ、お寄せくださいね。
掲示板でも まちうんどー(待っていますよー)
この一年も くま・かまご愛顧、たんでぃがーたんでぃでした。新年号の「民謡特集」から今回まで、おかげ様で24回無事に発行する事ができました。
今年も感想の書き込みやメールなど、たくさんいただき、ライター一同だいず、励まされました。読んでくださる方あってのメルマガです。感謝申し上げます。すでぃがふー!今年は投稿が少なかったので来年はぜひ、たくさんの方のご参加をお待ちしています。
私事ですが、今年は宮古に引っ越しをするという大きな出来事がありました。九ヶ月が過ぎましたが、もう何年も前から住んでいるような気もしますし、なんだか信じられないような気持ちになったりもしています。懐かしかったり、新鮮だったり。変動する時代の中にいるのは、宮古も同じ。今年はバタバタの一年でしたが、来年は、宮古について、方言について、じっくりと少しでも掘り下げることができればと思っています。
次号は、来年1月1日(木)、宮古の植物で作った、生活用品や遊び道具の特集を予定しています。どうぞ、お楽しみに!
かぎ正月をお迎えくださいね。あつかー、またや〜。