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くまから・かまから vol. 338

2021 10/15
メールマガジン
2015年4月16日2021年10月15日

こんにちは〜。
宮古では、海びらきが行われ、夏が近づいてきました。 サニツももうすぐ(4月21日)ですね。
今号も、ぬかーぬかゆみふぃーさまち〜。 (ゆっくりお読みくださいね〜)

目次

“うむくとぅの幸”をどうぞ

根間(幸地)郁乃(平良・久貝出身)

20代の終わりに島へUターンする前、失業中の私は、沖縄本島の大学で司書講習に通いました。どうにか資格だけは取ったものの就職して十年余りなかなか図書館に縁がなく、こればっかりは選べないしなあ・・・と、あきらめかけていました。ところが昨年の春、久しぶりに人事異動対象になり、図書館への配置が決まったのです。

私の住んでいる宮古島市には、3つの公共図書館があります。市役所平良庁舎向かいの平良館、北分館(旧県立図書館宮古分館)、そして城辺図書館。私は北分館に勤めることになりました。

北分館は、公共図書館としては珍しい、郷土資料に特化した図書館です。県立図書館から引き継いだ資料と、平良・城辺にあった資料の中から、宮古・沖縄関連の資料をピックアップして所蔵しています。

思えば数年前、宮古島出身の漫画家・下川凹天さんのことを調べる時にもお世話になったのが、この図書館でした。インターネットで検索しても読めなかった研究論文が、てぃ(手)の届く場所にあったのですから。読んでいる間じゅう、知的好奇心が満たされてゆくような、のーてぃまいあずざいん(なんともいえない)感覚を味わったものです。

さて、司書資格があるとはいえ私はペーパードライバーのようなもの。見よう見まねで図書館の仕事をスタートしました。本当に幸いなことに、図書館司書としてキャリアの長い先輩職員と まーつき(一緒に)配置されたので、日々あれこれサポートしてもらっています。

北分館はまだまだ認知度が低く、「え?あそこの図書館、閉まっているんじゃないの?」という方も多いので、なんとかもっと知っていただこうとPRすることにしました。

宮古出身の詩人の作品を歌うシンガーソングライターに閉館後の閲覧室でライブしていただいたり、宮古方言を学ぶ名物フランス人研究者に講話をお願いすることも。恒例の郷土史講座も、できるだけ敷居が低くなるよう見直しを図りました。結果、「初めて来たよ〜」と声をかけてくるお客様もみえるようになりました。

いっぽうで先輩は、郷土資料を利用しやすくするため、コツコツと改革を進めていました。重複する本は書庫に整理して棚をスッキリとさせ、とくに宮古関連の資料は、棚を組み替えて面出し(表紙を見せる)したり。漫画コーナーは一番目立つスペースへ移動。資料を気軽に手に取るお客さんが確実に増えました。

日々変わってゆく館内を見るのは楽しいものです。また、調べものに来館されるお客さんは十人十色の質問を持って来られるので、自館の本だけでは対応できない場合、インターネットや検索システムを駆使して回答することも。そばで見ていて勉強になります。

先日は、年配の男性が二人連れで来館し「魚の名前なんだが、テラピアかね、ティラピアかね?どちらかという話になったもんだから」と調べて帰られました。それから「近所の御嶽に立て看板を作りたいんだけど、そこの由来が分からんさぁね〜」という方に平良市史第九巻(御嶽編)を差し出すと、おお、こんな本があるんだねえと感心して読んで行かれたり。ぴっちゃがま(少し)でも疑問が解決できたら嬉しいな、と後ろ姿を見送ります。

もうすぐ旧暦3月3日のサニツ。浜へ下りて潮干狩りをし、身を清める日だそうです。サニツでは海の幸を楽しみますが、図書館は様々な人の書いた”うむくとぅ(思う事、知恵)の幸”が一面に広がる浜辺のようなものかもしれません。

ぜひ今度は、図書館という浜に下り立ち、郷土資料を手に取って、知の幸=地の幸を味わいふぃーさまち!

◇あの話をもう一度

ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)

「サニツの風景」 vol.167 2008/3/6

宮古島では、旧暦の3月3日は「サニツ」と呼ばれる行事が行われる。その日はご馳走をお重に詰め、隣近所誘い合わせて海にピクニックに行き、一日中海で遊んで過ごす。

元々は女性の祭りで、浜に下りて うぷす(潮水)に手足を浸し、身を清め健康を祈願したのが始まりだという。そのため はまうり(浜下り)ともいう。

子供の頃、サニツの日には下地の与那覇湾へ出掛けた。旧暦の3月3日は干満の差が大きく、特に与那覇湾は潮が引くと、そこには広大な干潟が出現した。多分、東京ドーム100個分ぐらいの広さがあったと思う。

その広大な干潟に、大人も子供も嬉々として下り立ち、かけっこをしたり、角力をして遊んだ。急激な引き潮で岩礁に取り残された魚やタコを捕ったり、岩に貼り付いた「アーサ」(海草)を採ったりした。砂浜では「しな」という、あさりに似た薄ピンク色の貝がいくらでも取れた。

「しな」や「アーサ」は、その日の晩には「しな汁」や「アーサ汁」、「アーサの天ぷら」として食卓を賑わし、あずーあずで(出汁がきいて美味しく)、潮の香りが混ざったそれらの味は、サニツの記憶として私の頭にインプットされ、今でも懐かしく思い出したりする。

当時、浜では ぬーまぬ(馬の)ぴゃーすみゃー(競争)や、すまーとぅす°(角力)大会が催されたりしていた。その他にも、オートバイ競争が催された年もあった様に記憶している。

みゃーく角力は、土俵が無く、腰に布を巻き、四つに組んだ状態から始め、先に肩が地表に触れた方が負けとなる。腰の すぴにさ(粘り)や、腕の たや(力)が要求されるスポーツで、腕が丸太のように太く筋肉隆々な ずみぎにしゃい(格好いい青年)達が、相手を うたいつきる(放り投げる)のを羨望の眼差しでみていたものだ。

モクマオウの木陰などに むっす(ゴザ)を敷き、その上で皆思い思いに過ごした。たいがい父ちゃん達は ぴすにう”(昼寝)をし、母ちゃん達は、世間話に花を咲かせた。遊び疲れた子供達は、時折戻ってきてはみっずゆぬみ(水を飲み)、こーすゆふぁい(お菓子を食べたりして)、また沖の干潟の方に じゃんみかして(一生懸命走って)行った。あしてぃ(そして)おじい、おばあ達は、そんな子供達を優しい目で眺めていたものである。

浜で遊び興じた人々が三々五々家路に着く頃、干潟にはひたひたと潮が満ち、いつの間にかあの広大な干潟が満々と海水を湛え、また、いつもの与那覇湾に戻って行くのであった。

今思い返すと、海の自然と共に一日を過ごすというサニツの風習は、海の豊かな環境があればこそ出来る行事なのだなと、改めて思う。

この宮古島のサニツ浜下りの風景は、まーんてぃ(ほんとに) いつがみまい、いつがみまい(いつまでも、いつまでも)、残しておきたい風景だと思う。これからも親から子へ、子から孫へと代々続いていく事を祈りたいものだ。

サニツぱま(三日浜)
 いむうり ぴとぅぬ(浜下り人の)
 っふふてぃんてぃん(黒点々と)
 しなかじ ぴとぅん(貝採る人に)
 すまゆとぅす°ぴとぅ(角力取る人)

明和の大津波

松谷初美(下地・高千穂出身)

東日本大震災から4年経ったが、宮古島にも んなま(今)から244年前、地震による だいばん(大きな)津波が押し寄せた。

当時の様子は、琉球の歴史書『球陽』と『思明氏家譜』の付属文書である「御問合書」等に詳しく書かれている。私は漢文が読めないので「『球陽』読み下し編」球陽研究会、「御問合書」について書かれた、沖縄県教育委員会「文化紀要第5号」に掲載されている島尻克美氏の「宮古島の大津波に関する一史料」や牧野清氏の『八重山の明和大津波』などを参考に調べてみた。

1771年(琉球王朝の尚穆王(しょうぼくおう)の時代。中国の年号乾隆36年。日本の年号では明和8年にあたる) 4月24日(旧暦3月10日)、午前8時ごろ石垣島白保岬から南南東40キロ(東経124.3度 北緯24度)でマグニチュード7.4の地震が発生。発生から2時間の間(資料によっては2時間後)に三度大きな津波が押し寄せた。(先の牧野清氏が『理科年表』に書かれているマグニチュードと緯度、経度などを紹介している)

その波の高さは「三丈五尺、或いは二丈五尺、或いは十二、三丈」(今でいうと10数メートルから40メートル余くらいか?)だったそうで、その津波により、大石が岸上に揚げられ、宮国・新里・砂川・友利・池間・前里・伊良部の伊良部・仲地・佐和田・多良間の仲筋・塩川、水納に甚大な被害をもたらした。

遭難溺死者は全島で2548人(男1149人、女1399人)。その中の80%が宮国、新里、砂川、友利の4つの集落の人たちであった。これでは村として成り立たないということで、長浜・前里・佐和田・国仲・仲地の人たちを移住させ、被災地より高台に村建てしたという。以前住んでいた場所は元島と今でも呼ばれている。

多良間では人口の11%の人が亡くなった。耕作地もほとんどが使えなくなり、食糧不足で困難を極めた。そのため「宮古島や首里王府に頼らざるをえなかった。そららの物は無料の救援物資ではなく、返済しなければならないものであった」という。また水納島では、全島が波に洗われ、家などは のーまい(何も)残らなかったようだ。そのため貢布は免除となった。

被害のあった村の人が用事の為、村を離れていて助かった、逆に、被害のなかった地域からその村に行って命を落とした人など、命運が分かれたことも書かれている。

また百姓の男12人と女4人は、波にさらわれ海に流されたが、2日〜4日後伊良部・洲鎌・狩俣等の海岸に打ち寄せられて助かったとのことだ。

各村の波に漂う家1054軒、波に侵される家25軒、馬403頭、牛238頭、橋3座、村番所6軒、織布屋16軒、藍蔵5軒、船76隻、船具屋1軒、その他、畑、防潮林なども大きな被害を受けた。

八重山では宮古の4倍近い、9393人(『八重山の明和大津波』では9313人となっている)が亡くなっている。当時の人口の三分の一にあたるという。その他の被害も相当なものだ。当時の人の衝撃はいかほどだっただろう。

被害の連絡を受けた、琉球王の尚穆王は、大変驚き、すぐに使いを出し、自身は崇元寺、円覚寺、天王寺などに参拝をし祈願したという。

下地の与那覇では、被害はなかったが、宮国・新里・砂川・友利で亡くなった人たちが潮に流されて、たくさん前浜に漂着した。『宮古島与那覇邑誌』上地盛光氏著によると「下地親雲上朝宜は、部落民を動員しこれらの屍を動物は浜辺に埋め、人体は前山に運ばせて丁寧に葬り、石碑を建て、子孫に伝えた」と書いている。「或る人は織機(はたむる)で織りかけの布とともに溺死して流され、また乳児を抱いたまま、漂流して」きたとも。

石碑を見たく、前浜の近くにある前山(地元の人たちは「めーやま」と呼ぶ)に行ったが、入口がなかなか探せない。畑でトラクターを運転している人に聞くと「子どもの頃、唐竹を取りに行って碑を見たことはあるけど、今は山の中は、あばりて(荒れて)いるから、なかなか入れないと思うよ」との事。後日、他の人から前山の南側の畑の持ち主である寄川さんのことをおしえてもらい、お宅まで訪ねて行った。すると案内してくれると言う。んにゃ、たんでぃがーたんでぃ。

寄川さんの畑を横切り、入口を見つけてもらい まーつき(一緒に)探すこと5分。山の西側の少し上ったところに碑があった!私のひざ上くらいの小さな碑。だいばん(大きな)がざまぎー(ガジュマル)が近くにあり、鬱蒼とした中、碑の上空だけがスコーンと抜け、雨上りの青空から日差しが燦々と降り注いでいた。それを見たら、なぜかグッとこみあげるものがあり、思わず手を合わせた。

碑は真ん中のところで斜めに切れていて、くっつけた(修繕した)跡があった。碑には、「乾隆三十六年三月十日大波」「宮國新里砂川・・」と書いてあるのが読める。244年前。確かに津波が来て、大勢の人が亡くなったのだ。

今では地元の人も石碑のことを知る人は少なくなっている。4月24日はもうすぐだ。244年前のこと。ばっしんようん(忘れないように)したい。

※1771年当時、琉球は中国(清)の年号を使っていたので「明和の大津波」という呼び方はされていなかったようだ。『八重山の明和大津波』(1968年)の著者牧野清氏はこの名称について「昭和13年に『琉球地震帯並に明和大津波』と題する、東大教授今村明恒博士の論文が発表されているので、これをもって一応命名されたものと考えてよいであろう」と書いている。宮古では昭和2年に発行された慶世村恒任『宮古史伝』の「明和の大海嘯」が最初のようである。(海嘯(かいしょう)とは昭和初期まで津波の意で使われていた言葉)

【参考文献】
・「『球陽』読み下し編」球陽研究会
・沖縄県教育委員会『文化紀要第5号』
「宮古島の大津波に関する一史料」島尻克美
・『八重山の明和大津波』牧野清
・『宮古島与那覇邑誌』上地盛光
・『新版 宮古史伝』慶世村恒任
・『近代の宮古の人と石碑』仲宗根將二
・『新版 宮古の史跡を訪ねて』宮古郷土史研究会
・『カラタケ』在沖与那覇郷友カラタケの会

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

宮古では、葉タバコの畑で、一番がーす(イワサキクサゼミ)が、ジージージーと鳴いているのが聞こえます。(でも残念ながらまだ姿は見られず)シロハラクイナも、ぐぁっぐぁっと鳴いて恋の季節 びゃーやー(でしょうか)。恋といえば、先月、鳩の求愛を見ました。雄が胸を大きくふくらませ、雌の後を追いかけながら、首を縦に何回も振っていました。その姿は「お願いします、お願いします。お嫁さんになってください」と言っているかのよう。初めてみる光景に思わずスマホを向けていました。春ですね〜。

郷友会の引き継ぎなどあって、今週月曜日13日からは東京に来ています。初日は、ぴしーぴしでしたが、だんだんと気温も上がってきました。桜はすでに葉桜ですが、いろいろな植物の新芽がめぶいていて春を感じます。スギ花粉も ぴーっちゃ(少し)残っているようで、たまにくしゃみを連発。おごえ、体は覚えているものなんですねー。

さて、今回の くまかまぁ のーしが やたーがらやー?

郁乃さん、念願の図書館への配属。その喜びと新鮮な気持ちが伝わってきました。まさに図書館にはいろいろな人の「うむぅこと」が詰まっていますよね。私も今回、津波のことを調べるために、何回も足を運びました。希望する本は全てあり感激でした。利用しない手はないですよね。文中に出てきた下川凹天について、郁乃さんは「あんちーかんちー」でシリーズで書いています。ロード トゥ ヘコテン 〜宮古生まれの漫画家、下川凹天への道〜 こちらもどうぞご覧くださいね。

B.サラさんのサニツの風景、当時の様子が細やかに描写されていて、タイムスリップしたかのように感じます。懐かしく思い出された方も多いことでしょうね。B.サラさんは「与那覇湾は、サニツに限らず家族でよく出かけた思い出の場所です。んなままい 目を閉じると与那覇湾を真っ赤に染めて沈む夕日が目に浮かび打ち寄せる波の音が聞こえて来るようです」と再掲載にあたりメールに書いていました。時は流れても、思い出は色あせることはないですね。

サニツとは対照的な津波。でもどちらも ゆぬ(同じ)海なんですよね。1771年のサニツの時も浜は潮干狩りをする人たちでにぎわった事でしょう。「明和の大津波」のことは聞いたことはあっても詳しく知らず、この機会に勉強しながら、紹介できればと思いました。石碑に辿りつくまで、与那覇の方にたくさんお世話になりました。特に下地恵昭さん、区長さん、同窓のふき子、そして案内してくださった寄川さん、まーんてぃ たんでぃがーたんでぃでした。

貴方の感想もぜひ、お聞かせくださいね。
掲示板での書き込み、どんない(たくさん)お待ちしています。投稿もお気軽にどうぞ〜。まちうんどー(お待ちしています)

きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!)

次号は三週間後の5月7日(木)発行予定です。どうぞ、お楽しみに〜。
あつかー、うぬ ときゃんやー。がんづぅかり うらあちよー。
(では、その時にね。お元気でお過ごしくださいねー)

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