こんにちは〜。
梅雨入りをして、すぷーすぷの(湿っぽい)宮古です。そんな中、テッポウユリや月桃の花がきれいに咲いています。
vol.364お届けです〜。お楽しみくださいね〜。
家が傾いた
宮国勉(城辺・西城出身)
大手不動産会社の分譲マンションで杭が支持地盤まで届いてなくて傾いているとのニュースが引っ切り無しに聞こえて来た。30年前は建築現場監督をしていた為、火の粉が降り注ぐような立場にあった。今は殆ど関係が無いけれど あがい んにゃさいが(あら大変じゃないか)と胸をなで下ろした。
ところが ばんたが やーぬど かたむき にゃーん(我が家が傾いてしまった)。
我が家は昭和59年の正月早々の1月5日から根切りが始まり、職人さんから「いくら突き固めても玉石が埋まってしまうんだが、どうする?」と訊かれて、自分の一言「木造は軽いから大丈夫だよ」と軽々しく口走った。始まったばかりで工事ストップするのは縁起が悪いなどと、そんなことを思っての事であった。軟弱な範囲も、狭くあってほしいとの願望であったに違いない。今にして思えばベタ基礎に変更する勇気が無かったことが悔やまれる。
鉄筋コンクリート造と木造の自重(自分の重さ)は大きく異なることから軽視し、し損じてしまった感がある。あれから30年経過し、大金を出すはめになるとは後悔先に立たずである。
木造住宅の重さは家具などの積載荷重を除いて坪当たり約1トンであるので、30坪の我が家は約30トンあると思える。1階は柱が18本あり、一本当たり1.5トン程度支えている。
築30年を過ぎた我が家は、クレセントはその都度調整して鍵は締められるようにしてきた。最近はサッシュのガラス戸が自動で締まるようになった。建てて入居する前に犬走りのコンクリートを打設の後、固まる前に重みで沈み亀裂が入ったので気がついていた。犬走りのコンクリートの厚みが20センチ以上あることも沈下を早めた要因であった。
住宅ローンの最長借入年数は木造では35年である。築32年経った我が家はほぼ消費期限は過ぎてしまったと考えて建て替えるべきか、ジャッキアップするか、選択の道は二通りあると思われる。いやもう一つ現状の傾いたままで住むこともある、とあれこれと考えていた。
水回りの洗面台や壁紙、襖、障子なども見窄らしくなり、その他にも色々と不具合が出てきて、そろそろ改修の時期かも知れない。32年間で消耗金額を計算してみると、びっくりポンである。しかし、住宅の場合は家賃だと思うと、仕方のない金額ではある。
今年から暇に(定年)なり、「道具と資材を買う程度で済むのでは」と考えて、自分でやることに至った。仕事ができて再就職したようなもので、上手く行けばあまり苦労もせずに、修理費も調整出来るであろう。自分でやれば住みながら出来るので引っ越し費用も掛からないし、交通費も掛からない。さらに創る喜びまで味わい、前向きに明るい気持ちになれる。
工事の時期を春から夏のうちに進めることにしたいと思うが、地震や台風、雨天でも困るから、それなりに仮設工事をして梅雨時を避けて始めるつもりでいる。
西側に隣接して中学校が幅約3メートルの暗橋を挟んで存在する。以前はそこに大きな欅の樹が立っており、その木陰で中学生が集まって悪さをしていたので切り倒し、丁寧に伐根までたらしい。造成前の土地の様子を隣に住んでいる地主さんから聞かされた。道理でいくらでも玉石が潜っていくのである。
暗橋にはコンクリート板の蓋が乗せられて遊歩道として利用されている。時々自転車も走り抜けるほどで、最近は人通りも多い。中学校の地境にはイロハカエデが聳え立ち、秋は紅葉が美しく、夏は日陰を作っている。敷地と暗橋との高低差が約1メートルあることも支持地盤としては気になる。
不同沈下をしている場所に丁度ピアノが置かれていたので、タケモトピアノに引き取って貰った。改修工事を始める準備が整った状態となった。やっと軸組の様子を確認すべく、壁を外し、床を捲り天井を剥がせるようになったので五月の連休明けには工事開始しようと思っている。
そういう訳で暫くは工事に集中する日々が続くことになりそうである。工事はやはり じんぬ さんみん から はじまる(お金の計算から始まる)。
工事予算は内装を別にして概算約100万円で工事を終わらせたいと考えている。やってみないと金額が判らないことから、外注すると高く付くので自分でやることにした。
しかし、初めての経験で自分を信じ、慎重にすべきである。この改修工事はこれまで携わってきた仕事の集大成と考え成功に向けて全力を注ぐつもりである。ああ、気持ちの所為でなぜか手に汗が滲む。
梅雨時を避けて工事を始める積もりでいるが、ジャッキを使い慣れること、軸組を確認するなど、壁を外し、床を捲り、天井を剥がし、工事開始である。今日では運搬業が進化し、その恩恵を受けているように思われる爪付き油圧ジャッキを見つけ、先が読めるようになり段取りが出来る。
支えられる地盤であることを確かめるには加力してみることにする。ジャッキを増やすことは安全に繋がり仕事も楽になると思えるので、4台は揃えることにする。各柱に順次加力して行きプラス5mmを基準とする。
建物を少し上方へ移動させるだけのことで大工事とはならないかも知れない。このレポートを書きながら自分の方針を決定し、確認しながら考えが正しいことを頭の中でシュミレーションしている。シロアリの被害もちらほら有り、チェック項目も山積である。しかし、車検ならぬ家検も必要だと思う。
資材と道具のリスト
レベル | 下げ振り | 記録写真 | コンベックス |
剣スコップ | 角スコップ | ラチェット | 電気ドリル |
卓上丸鋸 | ボールトナット12φ | 養生シート | 枕木(杉150×240) |
添木(SPF材50×105) | 爪付き油圧ジャッキ4台 |
◇あの話をもう一度
naichar-shima(下地・高千穂出身)
「ふぉーむぬ(食べ物)の話」vol.214 2010/2/18
その昔、吉祥寺の井の頭公園の近くに住んでたことがあって、その近くにラーメン屋があったんだけど、そこのトリソバと五目たまごソバがとても旨くて晩飯は毎日のようにそこに通ってた時期があった。
ある時、宮古の先輩に会うことがあり、お互いの近況を話しつつ、腹減ったから飯でも食いにいくかということになり、先輩に「俺のアパートの近くに だいず旨いラーメン屋があって、そこのトリソバと五目たまごソバはやめられんどうや」と話したら、先輩も「よし、じゃそれをたべに行こう」となり、そのラーメン屋まで行き、俺は即座にトリソバを注文し、先輩はというとメニューを見ながら悩んでる様子。
当然、トリソバか五目たまごソバを頼むかと思いきや、「俺はカレー頂だい!」っつぁー(だって)。一瞬時間が止まった。いや全世界が止まったように思えた。空を飛んでる飛行機も、どこかで走ってるであろうマラソンランナーも、蕎麦屋の出前のバイクも、犯人を追っかけているであろうパトカーも全てが止まったように感じられた。
それを見ていた神様が大あくびをしながら目にいっぱい涙をためて難儀そうに指をパチンと鳴らすと又世界が動き出し、俺も我にかえり、「ハァー!?カレー!??カレーな?ん?カレーな?」と何度も聞き返した。
先輩は「して、カレーを食べたいのに」っつぁー。「あがいー、うわー、あんちぬぴとぅ!(あんたは そんな人だー!)」俺はものすごく落胆した。そりゃー、メニューを見てて突然カレーを食べたくなったかもしれないけどさ。そういう友情親切台無的気まぐれ裏切行為はしちゃいかんのじゃなかろうか。
せめて、先輩はトリソバか五目たまごソバを注文し、おいしかったかどうかは別にして、そして別れ際に「かつぼう、今日はありがとうな」くらいは言ってほしかったのである。かつぼう的には。
きっと、その先輩は北海道でご飯食べに行ってもカレーを注文するであろうことを難なく想像できたことはいうまでもない。
そういう俺も、昔から食べ物に関してのこだわりとかいうものはほとんどなく、どこそこのラーメンがおいしいからといって並んでまで食べようとは思わないし、たまたま入ったお店がおいしかったら、その店を頭の中にあるブックマークをクリックして保存し、何かの機会があれば食べに行くというくらいのものだ。
今、俺が一番食べたいものはソーキ汁である。ソーキ(骨付き豚)と野菜(昆布や すぅ(冬瓜)、やつうさ(よもぎ)、ばんき゜(桑)の葉やら)があふれんばかりに盛られたあのソーキ汁だ。それも宮古に行って、しかもかーちゃんが作ったソーキ汁じゃなきゃダメである。東京でも食べられる店はあると思うが、やはり宮古行ってかーちゃんが作ったソーキ汁でなければいけないのである。それは何故か?
そのソーキ汁には、俺が生まれてから宮古を離れるまでの色んな記憶がいっぱい詰まっているからだと思う。一口食べては小さい頃からの畑仕事を思い出し、又一口食べてはお父、かあちゃん、おじー、おばーに怒られた事を思い出し、又又一口食べては宮古を離れたときの宮古空港を思い出し、と宮古を離れるまでの色々な出来事、あるいは自分という人間の元になった何かがそのソーキ汁には凝縮されているんだと思うから宮古行ってかあちゃんの作ったソーキ汁が食べたいと思うし、そういう意味で母親の味は特別なものだと思う。
人それぞれに母親の味というものはあると思うが、昔に比べて、それが持つ意味の重要性というのは薄れているんじゃなかろうか。
今の時代は母親が忙しくて料理を作らなくても、近くのコンビニに行けば自分の好きなものをいつでも買えるし、いつでも食べられる。という便利な世の中にはなったと思うが、それによって失われる物もあるという事に気づかねばなるまい。
親が子を殺し、子が親を殺しと目も耳もふさぎたくなる様な事件が毎日のようにメディアに取り上げられているが、それにさえ慣れてしまい、「久しぶりに、上野動物園にパンダがやってきます」という情報と同じ次元で処理してしまう。
思うに、幼い頃から、母親(父親)が作る、肉体的な滋養だけじゃなく、精神的にも滋養あふれる料理を食していれば、たぶん、大人になっても大きく道を外れる事はないだろう。
『なりやまあやぐ』をオペラで聴く
キムキム(平良・西里出身)
歌が好き、大勢で合唱すると気持ちがいい。
1960年代の平良市にあった「琉米宮古文化会館」に合唱サークル「平良少女合唱団」があった。歌うことが好きなら誰でも入れたと思うが、小学4年生から中学3年生までの女の子だけの合唱団であった。
毎週土曜日の13時から17時ごろまで練習していただろうか。いきさつは忘れたが、近所の友達と見学に行き、そのまま入団した。50名ぐらいの団員、指揮者とピアノ演奏、文化会館の職員らしき女性がマネージャーのような仕事をしてくれていた。
最近のように、文化活動が活発ではない時代。週に1回の練習は楽しかったし、楽しみであった。土曜日に学校から帰ると(当時は土曜日は毎週半ドンだった)、急いで昼ごはんを食べ、走って文化会館に向かった。
「ばんがむり」「あさどやゆんた」「だんじゅかりゆし」「なますぬぐぅ」「てぃんさぐの花」、琉球民謡の多くを、私はサンシンからではなく、合唱曲として覚えてきたように感じる。して、練習してどうしたか?・・・ただ「楽しんだ」記憶しかない。
歳を重ねるたびに、いつでも、どこか遠くから「サンシン」の音が聞こえてくる沖縄の空気を感じたくなることある。自ずと出てくる唄は、なぜか「かぬしゃがまよ」。私が、子育て中に子守唄として、子供達に歌って聴かせたのが「ばんがむり」、泣きやまない娘に、こちらが泣きたくなる思いで唄ったのが「かぬしゃがまよ」(詩の意味とは違うが、メロディがシックリくる)「ねんねんころりよ〜」と唄ったところで、泣き止むわけがないと確信している。
先日、宮古の知人に誘われて、東京上野で開かれた「平良栄一リサイタル」を鑑賞してきた。平良氏は御年70歳で、テノール歌手であり、音楽大学の教授である。父が上野村・母が平良市、ご本人は、宮古で生まれ2歳の時、コザに移り住んだらしい(誘ってくれた知人の前情報から)。
仕事を終え、急いで電車に飛び乗ったものの、会場に着いたのは、開演5分前だった。会場には、「その顔は、沖縄出身だね!?」と思われる多くの人達。教え子らしき気品ある音楽家たち(?)。良い場所で聴きたいとの思いの表れか中央の席は、既に満席状態だった。
私達は、前から3番目の中央、顔の皺まで見えるほどの最高の席を確保できた(上野郷友会のおかげだはず)2時間のリサイタルであったが、前半の1時間は、イタリア歌曲を中心に5曲、テノールの繊細で美しい響きに会場からは、「ブラボー」の声援も。休憩をはさんで、隣の知人が座りなおした、いよいよ、「なりやまあやぐ」が始まる。
♪さーあ なりやまや なりてぃぬ なりやま・・・ときおり、みーがま(目)を「ツンツン」とさせ、両手を大きく広げて、身体全体を揺らしながら情感たっぷりに、してパワフルに、歌い上げた。「ういがどぅ、ばが「なりやまあやぐ」どぅや〜(これが私流のなりやまあやぐだ)と言っているように、自信に満ち溢れた表現だった。
聴いていると、まるでどこかに連れて行かれるような、不思議な陶酔が訪れた。ここで、オペラの会場とは思えぬ指笛の声援が会場に鳴り響いた。すると、びっくり、平良さんが、指笛で返したのである。会場全体が何とも言えない「ぬふーぬふの(温かい)笑いと感動」に包まれた。ハンカチを目にあてる人、頭上で拍手し続ける人・・・・・・ズミだった。
何でもそうだが、表現のしかた、それに込めた思いは「人、それぞれ」。共感できた時の喜びは涙となり、拍手となって鳴り響く。気持ちの表現が苦手な私も、帰りの電車の中では、ずーっと、「なりやまあやぐ・オペラバージョン」に浸っていた。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
昨年6月から宮古島市文化協会で仕事をするようになって一年が経とうとしています。今月13日に無事に初の総会が終わって、うむやす〜うむやす(一安心)しているところです。
掲示板での書き込みもなかなかできなくて申し訳ないです。でも、二年目は、大丈夫だはず。宮古の写真もいっぱい載せられるように頑張りますね〜。
して、宮古にはいろいろな催しものがいっぱいですよ。5月10日〜16は、平良出身で現在は長野県にお住まいの伊波文三さんの彫刻展が宮古島市内のギャラリーで開かれました。
石膏や木彫り、彫造レリーフなどの作品が展示され、やまかさ(たくさん)の方が訪れていました。とても繊細で温かみのある作品にお人柄が表れているように思いました。生活の中にある野菜や包丁、木の葉なども見事でした。その中にある「沖縄考とホオズキ」は、伊波さんのふるさとへの想いが見えるようでした。トークショーもあり、作品への想いや作り方などが語られました。伊波さんは高校を卒業してから大学、就職と46年長野に住んでいらっしゃるとのこと。長野県飯田市美術博物館評議員もされているそう。宮古で個展を開くのは大変だと思いますが、いつかまた開いてほしいですね。たんでぃがーたんでぃでした!(伊波さん、くま・かまのこと知ってくださっていて、うれしいお話が聞けました。すでぃがふー!)
さて、今回の くま・かまぁ のーしがやたーがらやー?
宮国さん、定年されて今度は「さやふ(大工)」ですね。ご自身で改修するところがさすがですよね。きっとあれやこれや、さんみん(計算)することも楽しいことでしょうね。書かれているように集大成となりますね。そして、車検ならぬ家検、地震等のことも考えて必要だなーと思いました。
5月8日は、母の日でしたね〜。母の日にちなんで、母の味について書かれた「ふぉーむぬ(食べ物)の話」を再掲載しました。ばっしらいん(忘れられない)母親の味ってありますよね。そしてそのことは、心を豊かにしてくれます。して、カレー食べたい時はもうカレーしかないんだはずよ。
テノール歌手「平良栄一」さんのリサイタル、大盛況だったようですね。「なりやまあやぐ」が東京のホールで鳴り響いたことは、うれしい限りですね。郷友のみなさん、心癒されたことでしょう。指笛の返しの様子も会場の雰囲気が伝わってきました。私たちにってふるさとは歌の中にもありますね。
貴方はどんな感想を持ちましたか?ぜひメールでお寄せください。
掲示板での書き込みも どんないお待ちしています〜。よろしくお願いします。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は6月2日(木)発行予定です。
きゅうまい 上等一日でありますように〜。 あつかー、またや〜。