こんにちは〜。
3週間ぶりのくま・かまです。 がんづぅかりうらまずたーなー?(お元気でいらっしゃいましたかー)?
台風1号が宮古、石垣に近づいていますねー。 気を付けましょう。
vol.367お届けです。お楽しみくださいね〜。
観光テーマパーク
R(平良・西里出身)
宮古島に帰省して 同級生と過ごす時間がある時は、宮古島一周のドライブをして過ごすことが多い。景勝地めぐりを兼ねながら、友人たちは、新しい道路だったり、新しい施設だったりと前回訪ねた時との変化を説明してくれるので有りがたい。
宮古島一周のコースには必ず入る東平安名岬。「宮古島シギラリゾート」の一画を通り抜けて行くことがあるが、その際友人に言われることは「ここは内地の うやき人(金持ちの人)が泊まるホテルさいが」と必ず説明がつく。芸能人もお忍びで宿泊すると聞くが、ホテルの敷地内を窺うことはできない。
道路とホテルの境を作る塀は、実際の高さよりも たかーたか(高く)感じ、その内側は、決して入ってはいけないエリアのように思えたものだ。学生の頃は「博愛記念碑」があるのみの寂しい感じのする一帯であることを思い出しながらも通り過ぎることしばしであった。
さて、そんなホテルに宿泊する機会があった。格安のモニター料金プランを探してきた会社の友人の誘いを受けた。泊まる機会はない、と思っていたホテルであったが、東京の知人も毎年泊まりに行くと聞いたし、姪っ子も泊まったと聞いていたので、経験したくなっていた矢先の誘いに乗った。
空港に着くと んかい(迎え)のバスが来て、複数ある宿泊施設に順次連れて行ってくれる。宮古島シギラリゾートには、4つの宿泊施設があるそうだ。飲食施設は、ホテルの施設内にもあるが、施設外にも独立した構えであるものもあり、また、民謡酒場的な んーなしー(みんなで)歌い踊り楽しめる雰囲気のものもあった。
遊びの施設も充実しており、それぞれのエリアをはしごしながら、宮古島シギラリゾートの敷地を出ることなく、宿泊期間を過ごすことが十分にできる印象を持った。まるで一つの村を形成している雰囲気だ。老若男女をあきさせない。だから、観光客が来たがるわけだ。
この村を宮古島全体に広げることができたら、ますます観光客は増えそうだ。観光客が増えたら、宮古島は更に潤うことができるのではないか?
釣り体験。釣れた魚をホテルで調理してもらうことができる。
海水を使った豆腐作り。
野草を摘んで食べる体験。
野外での宮古牛のBBQ。
子どもだけでの野外キャンプ。Etc...
武富島のように島全体が観光地になれないか?北中城の大城(ウフグスク)のように個人の庭を開放する仕組みは取り入れられないか?熊本城周辺のような熊本土産が一同集まった施設が作れないか?東京ディズニーランドのようなテーマパークを宮古島全体で作り上げられるような気がしてならない。
難しい問題は数々あると思うが、宮古島の可能性を十分に感じた1泊となった。
◇あの話をもう一度
ワタリマリ(上野・宮国出身)
「兄を想って書いた詩(17)」 vol.250 2011/8/18
この詩は、脳性マヒの あざ(兄)を想って書いたものです。
ボクの持つべきもの ボクには財産はあるのだろうか? 心の財産は親や姉妹たち、親類のみんなだけれど ほかには?というと お金も持ってないし畑もない 靴もなければ帽子もない ほとんど「ボクのもの」はない しいてあると言えば遊び道具のなわとびだけだ ボクは生まれたときから はやく「死んだほうがいい人」の中にいて 「さーち すにるいら(早く死ぬんだよ)?」と いつも促されていた 悪意で言っているわけではない が冗談でもない 本心でもなければかといって嘘でもない ただこの命どうしようかと みんなが案じているだけだ 未来を持つことができるわけじゃないし 自分の意思で生きていく力すら持ってないないボクだから 物置みたいな存在のボクに哀れ情けをかけているんだ 執着なしで手ぶらで生まれて毎日手ぶらで生きている まさに「のーまいにゃーん(何もない)」ボクだ こんなボクのどこに 物を持つ意味と必要があるだろうか 妹はボクに歩行の訓練をする 必死にボクを背中から抱えて直立不動の・・・ ああ無理だって あきらめろって 必要ないって こんなちいさな体でボクに何を持たせたいんだ 足裏は地に付かず 膝は曲がり キミが手を離したらボクは崩れるだろう 何も持てないのさ それでも妹は固い固いボクの足を 先へ先へと出そうとする 歩いたところでボクに持たせるものでもあるのだろうか ボクに語りかける妹 歩いて畑にいこうね 海にいこうね んまやー(おばあ家)にも やーむとぅ(家元)にも行けるようになるさあ 学校にもいって 運動会にもでて リレーの選手にもなれるはずよと せつないくらいに希望と未来をあきらめない妹 こんどはボクの指をとり人差し指を立たせ 他のは折り曲げて 「くいど ぴつーつあーばんに(これが一つだからね)」 「くりゃあ ふたーつ(これはふたつ)」と ボクの固い固い指を広げたり曲げたりしながら数の練習 そんなのしても無理だって あきらめろって ボクには何も必要ないのさ 数が数えられたところで ボクの何かを持つことができるわけでもないし また妹が語る 字も覚えて算数も解かって だれよりも一番になるさあ そしたら お金持ちになって 何でもできるさあ ボクのあり得ない未来を手放そうとしない妹 ボクに対して だったらいいねえをいっぱい持って生きている家族 何も持たない美学もあるというのに ボクは何も持っていないけれど ボクはぜいたくな何もしない日々を送っている 父と母の「すとむち ぬ ちゃあ(朝のお茶)」で目覚め 海から吹く風を枕に夢をみる真昼間 小鳥の歌で目を覚ませば 今日は終いかけていく ほらこれといって何もない 何かを持たなくては生きていけない普通の人々 幸せや不幸せは別として なんだかオモタそうだ オモタくてもみんな何も感じずそれが当たり前になって それがまた人の人生になっているようだ それがまた人の喜びでもあるようだ 何も持たないボク 姉や妹たちはこれもあれもと欲ばかりだ もうボクに何かを持たせることはあきらめて 母と一緒にボクに問う 「ぷからすーぬ?(嬉しいの)」 ぼくは「ん」と答えた そしてまたなわとびとあそび 海を眺める日々を過ごしていた ボクが持つべきものがここにある
『ひめゆりの塔』の話
カニ(平良・西里出身)
【映画「ひめゆりの塔」】
その名の映画がこれまで5回も作成された。古くは1953年、そして1968年、1982年、1995年、2007年にそれぞれ公開された。
私は1968年の「ひめゆりの塔」を見たのを記憶している。当時は小学生。クラス全員で映画見学という学習にあてられた。
記憶の片隅にひとつのシ−ンだけが残っている。それは断崖絶壁に追い詰められたひめゆりの女学生らが最後に浜に降り、琉球民謡の「谷茶前」を歌っている場面だった・・・。「谷茶前」の民謡は幼いころから琉球芝居座が宮古島にきて披露していたので慣れ親しんでいたからかもしれない。
1982年(昭和57年)に大学卒業後、沖縄に戻った年に、那覇市国際通りの安里三叉路にあった映画館で再びこの「ひめゆりの塔」が上映されていた。映画は見なかったが何故か映画の看板が焼き付いている。
宮古方言の勉強を始めた頃に同時に「今帰仁方言」辞典を買い、行き詰った時には並行して今帰仁方言辞典をひも解いていた。私はその「今帰仁方言辞典」の著者である仲宗根政善先生を尊敬している。
その仲宗根政善先生が綴った『ひめゆり学徒の手記』が実は映画「ひめゆりの塔」の原作だったことを知ったのは今から約10年程前のことだった。それから「ひめゆりの塔」に興味が募った・・・。
そうして2007年に作成された「ひめゆりの塔」の映画を再度見ることができた。やはり印象に残ったのは昭和20年6月19日に豪から解散を命じられ米軍に追い詰められていく20歳にもならない乙女らの姿で、最後に喜屋武断崖に追い詰められていく場面だった。なけなしの白米を皆で分けて食べ、そして最後に琉球民謡を歌い踊る・・・そんな場面だった。
今日は慰霊の日、カニは「ひめゆりの塔」とひめゆり平和祈念資料館を訪れた日のことを思い出しています。今から約7年程前のことだったと思います。仲宗根政善先生の著書である『石に刻む』を読みカニはひめゆりの塔に誘われるように出かけました。そしてその時の想いを今から3年前に綴りました。
【「ひめゆりの塔」・・・「ひめゆり」の由来】
「ひめゆり」の由来は植物の花ではありません。戦前には沖縄の未来を担う教育者や地域のリ-ダ-を育成する教育機関として沖縄全島から学問好きな好奇心のある優れた人々が集まる学問の府と呼ばれる「沖縄師範学校」というのがありました。
この師範学校に入るには難関と呼ばれる試験を受けなければなりません。簡単に入れないのです。沖縄全地域から学問に希望を持つ目の輝いた精鋭なる知能が集まる場所が師範学校なのです。
師範学校は男子校、そして女子高には当時沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女子学校があったのです。その沖縄師範学校女子部の校友会誌を「白百合」、一高女の方は「乙姫」と名付けれており、両方の名前の一部である「ひめ」と「ゆり」を併せて「ひめゆり」という名が生まれました。
この2つの女学校の学生らも沖縄全島から集まっておりました。与那国島、石垣島、多良間島、宮古島(城辺、下地、平良など)、渡嘉敷島、久米島、本部、今帰仁、国頭、大宜味、金武、読谷など、まさに全島から沖縄の未来を引き継いでいこうとする女性の知能集団が集まっていたのでした。
私は7年前にこのことを「ひめゆり平和祈念資料館」で見つけた書『墓碑銘』で知りました。昭和20年6月18日に豪で解散し、19日から南へと追い詰められていく中にこの女子学生ら222名ととその引率教員18名らがいたのです。教員の18名中16名はなくなり2名が生き残ったと思われます。その奇跡的に生き残った引率教員の一人が私の尊敬する沖縄方言研究家の仲宗根政善氏だったのです。(続)
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古では先日、気温36.1度を記録しました。(私が子どもの頃は上がってもせいぜい32度くらいだったような・・・)台風の発生も遅く、ぴんなぎ(変な)感じがしています。して、台風1号はいきなりのだいばん(大きな)台風。マンゴーや野菜など、しわやー(心配ですねー)今、時折雨がザーッと降ったりしています。被害がないことを願うばかり。
6月25日に開催した「第23回鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会」(宮古島市文化協会主催)は、大盛況のうちに終了しました。たんでぃがーたんでぃ。チケットは30分で完売。開演前には、ながーながぬ(長蛇の)列ができるほどの大盛況でした。出場者は24歳から90歳まで8組9名のみなさん。ことわざや昔の思い出、家族のこと、みゃーくふつに対する熱い思いなどが話されました。芝居風あり、方言漫才もありでバラエティに富んだ内容でした。司会は昨年市長賞を受賞したセリックケナンさん。見事な方言で出場者の紹介をしました。大会の様子は、先日(7月2日)エフエムみやこで放送されましたが、旧盆の頃には宮古テレビでも放送予定です。こちらもどうぞお楽しみに!審査の結果は次の通り。
市長賞 (最優秀賞) | 来間トミさん |
教育長賞(優秀賞) | 前川良子さん |
文化協会長賞(優良賞) | 下地秀樹さん |
審査員特別賞 | 新里英斗さん |
宮古毎日新聞社賞 | ヒコちゃんみっちゃん |
宮古テレビ賞 | 與那覇淳さん |
宮古島観光協会賞 | 池間健栄さん |
エフエムみやこ賞 | 国仲徳三さん |
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
Rさん、シギラリゾートに行かれたんですね〜。そのすごさは噂にはよく聞きますが、その中だけで過ごせる感じなんですね。それにしても今、宮古は空前の観光客数です。緑をいっぱい増やしてどこにもない宮古の自然を生かしたテーマパークもいいかもしれませんね。
あの話をもう一度は、ワタリマリのお兄さんの詩でした。お兄さんの詩は、時折読みたーくなります。そして読む心がとても穏やかになります。“持つべきもの”考えさせられますね。お兄さんは、優しい家族を持って幸せな日々だったことでしょうね。
カニさんの「ひめゆりの塔」のお話しは、6月23日(慰霊の日)にくま・かま掲示板に投稿されたものです。映画の原作にあたる本のことも「ひめゆり」という名前の由来も今回初めて知りました。仲宗根政善氏の想い、それに胸打たれカニさんの気持ちが伝わってきました。次号に続きます。
貴方はどんな感想を持たれましたか?ぜひメールでお寄せください。
掲示板での書き込みも どんないお待ちしています〜。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は7月21日(木)発行予定です。
台風もそうですが、熱中症にも気を付けましょうね〜。 あつかー、またや〜。