くまから・かまから vol.403

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 明けましておめでとうございます!
 かぎ そうがつ(良い正月)をお迎えのこととお慶び申し上げます。今年最初のくま・かまお届けです。
 お楽しみくださいね〜。今年もよろしくお願いいたします。

稲垣国三郎レポート(VOL4)

あすなろ(平良・東仲出身)

 くんどぬぱなすやー 国三郎ぬ みゃーくでぬ うぐきゆ かきみーでぃ
(今回のお話は)(国三郎の)(宮古での)(動きを)(書いてみます)

 時は大正6年。30年振りの寒波は鹿児島にさえも10センチ程の積雪をもたらし、一家を美しい雪化粧で迎えてくれました。広島を1月31日に立ち、いよいよ今日(2月4日)は鹿児島の錦江(きんこう)湾から琉球への出帆の日。乗船時刻は午後4時。ジャラン、ジャランと銅鑼の音が響きわたる。「どうして沖縄行きを決心してしまったのだろう。船から飛び降りたい」と国三郎は本音を吐露しています。
 
 冬の七島灘(屋久島から奄美大島の間)越えは、黒潮と格闘するため3〜4メートルの波は覚悟しなければなりません。案の定、想像を絶する大波に遭遇し、奄美大島で20数時間近くも避難したと懐述しています。さぞかし御家族は恐怖に慄いたと想像します。この時、静子夫人と不二子(長女6歳?)、正(まさし−長男4歳?)も同行していたと思われ、生きた心地がしなかったに違いありません。
 
 2月6日には21度もある穏やかな沖縄に到着し、その変化の大きさに驚いたと回想しています。『琉球小話(P1−桜島をあとにして、P2−南国の風物)』
 
 「彼」は沖縄県師範学校訓導・附属小学校主事として教鞭をとった5年の間に講演等も含めて各地に足を運んでいます。
 
 1918(大正7)年3月、那覇から名護湾を北上する船。60キロも離れた那覇まで見送りに行けない老夫婦。名護城跡で松葉を燃やして白い煙で見送る。船からは黒い煙が・・・本土へ就職する娘との惜別を綴った「白い煙・黒い煙」のエッセイはつとに有名です(『琉球小話(P136−惜別の親子−』)が、今回は、宮古島との関わり合いについて、「彼」の有名な著書『琉球小話』(沖縄文教出版・昭和47・10発行)を参考にしながらレポートしたいと思います。(以下、この著書は『同』と表示します)
 
 「彼」は宮古島を3回訪れています。初めての宮古島はネフスキーが来島する3年前の1918(大正7)年12月26日。台湾航路の宮古丸で訪れ、漲水港の北海岸の宮古旅館(んざぬ旅館がらや?―何処の旅館だろう)に宿泊し、「布干道(ぬぬほしどー)」での思い出や、「高麗芝が美しく畳を敷いたように生え」と今は埋め立てられて消えてしまったサッフィの「ポー崎?・ボラ崎?」の事を思わせる記述もあります。漲水御嶽伝説にも触れ、宮古島の開祖・古意角や姑依玉の二神の事も紹介しています。古刹・祥雲寺等にも筆を運んでいます。『同・(P192−宮古島の断片−)』
 
 予定では12月30日に帰途につき、大正8年の新年を首里で迎える手筈。しかし、生憎の悪天候で基隆から八重山経由の船が来ない。結果、新年を宮古島で迎えています。首里の奥さんは流行性感冒で病床にいる。1日でも早く帰りたい。1日が過ぎ、3日が過ぎ、漸く1月8日宮古を離れます。その時の心細さを平安時代に喜界島へ流された俊寛僧都(しゅんかんそうず)に準えて綴っています。『同・(P210−今様喜界島の俊寛−』
 
 初来島の目的の一つは、「西城?小学校」での講演。交通機関が皆無に近い大正時代の宮古島。城辺までの12キロをロバに近い宮古馬にまたがり雨に打たれて目的地に到着するまでを滑稽に描いています。『同・(P200−乗馬の旅−)』
 
 2度目の来島は1920(大正9)年の夏休み。八重山行きの途中で1日のみ上陸しています。『同・(P214−八重山の石垣港−)』
 
 3回目は、沖縄師範を離任してから14年後の1936(昭和11)年1月24日、「久松五勇士」30周年記念式典に参加しています。今年10月、沖縄県立図書館でこの式典の様子を記事にした『宮古民友新聞』(第2127号・昭和11年1月26日発行)をコピーする事が出来ました。コピーの写しを旧県立図書館宮古分館に預けてきましたので興味のある方は足を運んでみて下さい。かなり詳細に記事にしています。
 
 ところで、何故に彼は「久松五勇士」にこれ程深く関わったのか?そのヒントは『おきなわ』(No.21・第三巻第五号)1952(昭和27・8・10発行)にありました。「祖国愛」と題して「その動機」を綴っています。
 
 1918(大正7)年5月の海軍記念日、沖縄師範教諭の佐久田昌教(宮古出身)が全生徒に「久松五勇士の話」を講和します。「この話」にいたく感動したのが稲垣国三郎先生。先述した1回目の来島時に、これまた乗馬にて久松へ赴きます。目的は「勇士」に会う為です。「勇士」の一人の家の粗末さに驚き、怒りが頭をもたげてきます。命を賭して、国家の一大事を成し遂げた「五勇士」に国は何の敬意も払わない。愛国は軍人だけのものではない!五勇士の恵まれぬ境遇が脳裏から離れない。「私」は何をすればいいのだ!考えついたのが「遅かりし1時間」の一文。この一文が早大教授五十嵐博士の目に留まり『純正国語読本』(中等學校国語教科書)に載せられ、全国区になります。さらに、『大阪毎日新聞』(昭和9年5・18発行)に大きく報道されるや、時の海軍省が驚き表彰の手続きをとります。
 
 司馬遼太郎は『坂の上の雲(七)−宮古−』の項で「稲垣国三郎」に触れながら、五勇士のひとり、垣花善の話や荒波に向かってサバニを漕ぎ出す夫を案じた与那覇蒲の夫人カマドの話「かいたぁ(彼等)すぬ(死)に行った」等を紹介しています。
 
 「彼」は3回目の来島の際、「久松五勇士」の式典参加以外にある企画を温めていました。その企画を教育関係者に紹介します。昭和11年がロベルトソン号救助から60周年にあたる事です。この企画は下地玄信(明27・6・30〜昭59・5・23)等の活躍もあり60周年記念式典へと結実します。この年は2.26事件が起きています。軍部が台頭する時代でもあり、この60周年記念式典は日本やドイツの思惑が複雑に入り混じった歴史の1ページとも言えます。
 
 得意な脱線をお許しください。
 
 今年の3月、明治大学の辻朋季先生が我が家へ立ち寄って下さいました。先生は宮国優子さん達が立ち上げた「一般社団法人ATALAS(あたらす)ネットワーク」の公式ブログで「続・ロベルトソン号の秘密」を担当されています。
 
 実家が愛知県の岡崎と言う事もあり、帰省の際に立ち寄って下さり、ドイツで入手した「稲垣国三郎」の直筆の手紙(トラウツ博士との往復書簡―60周年記念式典に向けてのやりとり―)のコピーを戴きました。かなり貴重な資料です。その足で、憶念寺(安城市古井町)にある「彼」の胸像とお墓を、古井歴史研究会杉浦正之会長・元安城歴史博物館館長天野暢保先生の4人で見学し、昼からは「古井歴史研究会」で【宮古島「博愛記念碑」の顕彰事業と稲垣国三郎】と題してお話をして下さいました。このレジメは「古井歴史研究会(189回)」の資料として大切に保管されています。
 
 次回は「彼」が沖縄での「綴り方教育」にどの様に関わってきたのか、さらには、貪欲な沖縄探究の諸々の行動をレポートします。   続く。

◇あの話をもう一度

菜の花(伊良部町仲地出身)

「『火熾きの歓喜(よろこび)』の話」vol.301 2013/10/3

 声を聞くだけで心が温まり、励まされたり諭されたりすると、ぽからす〜
 (嬉しいの意)となる・・・誰もがそんな経験をしたことがあると思う。
 
 「ぽからすむぬ」とは、宮古方言で喜びや嬉しさを表す。灯(ともし)がついたように明るくなり、温もりを感じて喜ぶことで、古くは「灯し」や「温もり」のもとである「火」に関連した言葉であろうとのこと。
 
 その昔々、太古の時代に思いを馳せてみよう。
 
 火を持たない人類の祖先は、漆黒の闇に脅え、太陽が昇る朝を待ち焦がれていたのだろうか。月の明かり照る夜は、闇の恐怖から逃れて眠りについたのだろうか。灯りを持たない人類が、大地に降りそそぐ太陽や、闇を照らす月を神と崇め、消えてしまわないようにと祈る姿が目に浮かぶ。
 
 ヒトが最初に手にした「火」とは、落雷や山火事で得たものであり、容易に「火」を手にすることができなかった。「火」への渇望が、やがては「火」を生み出すことへと繋がっていく。
 
 ヒトは、樹木の摩擦で火が起こることに気付き「火きり臼・火きり杵」による「人工の火」を創りだした。この時の喜びはどれほどのものであっただろうか!停電になったとき、電気が復旧して蛍光灯が点いたときのあの歓びの何百倍、何万倍もの歓びだったと想像できる。
 
 「それは例えるもののないほど、『歓喜』であったように思える。その『喜悦』の名残と思える語が、幾何(いくばく)か、宮古方言圏の日常語の中に見られる。」とは、宮古方言研究会の講師である新里博先生の言葉である。
 
 以下は「宮古古諺音義」著者である新里博先生の配布資料より抜粋。パソコンでは表記できない特殊記号があり、完全な転記ではないことをご了承ください。

(1)ほからしかる/火熾きあらかしかる/ pokaraskal[形]うれしい
  (原義;火が熾きたように喜ばしい)・とてもうれしい。
 
(2)ほからしさ/(火熾き有らしさ/pokarassa[名・感動詞・サ変]
  うれしさ、喜ばしさ。
  「ほからしかる」[形]の語幹「ほからし(←火熾きあらし)に、
  接尾辞「さ」がついて名詞化したもの。
 
(3)ほおき-うまつ(火熾火)/ポーキ-ウマツ/[名]・・・歓喜の火、
  *薪の火が、シューッという音を立てながら勢いよく燃え盛る状態(ありさま)をいう。
 
(4)ほおきざ(火熾座)/ポーキザー[po:kidza:][名]・・・火が勢いよく燃え盛るように盛り上がっている酒宴の座、歓喜の宴。

「宮古古諺音義」著者である新里博先生の配布資料より抜粋

 ところで、「火」を表す音節を「ほ」と発音する例が上代の文献などにあるだろうか。『古事記』(上巻)の神名に、「天火明命(あめのほあかりのみこと)」(天孫降臨)、「火照命(ほでりのみこと)」・「火遠理命(ほをりのみこと)」(海幸彦・山幸彦)の例が見られる。『日本書紀』(巻第二、神代下)にも、「ほほ(燻火)」の例を見ることができる。
 
 「火をきり出す用具(臼)」の原料となる樹木「火熾し木(ほおこしぎ)」にも「ほ(火)」であり、また、太古から生存したであろう、昆虫の「ほたる(火照る;蛍)」にもやはり「ほ(火)」であることから推察すると、「火」の意味でいう、最も古い倭語は、「ほ(火)」であっただろうと考えられる。
 
 この話を毎月渋谷で開催される宮古方言研究会で拝聴したときは、目からうろこがポロポロと剥がれ落ちていくようであった。
 
 ほたる(蛍)のことを、私の生まれ育った伊良部島・仲地集落では「ヨームポ(ムス)」と言う。まさに、ヨームポ  /夜の標火(ほほ)/yo-mpo:である。
 
 宮古方言と遥か遠い原始の時代が繋がって、過去から現在まで、それは途絶えることなく続いていることを感じた。
 
 宮古島の方言を「生きた上代の化石・日本国の宝物」と新里先生は仰る。先生の言葉の一つひとつには、長き人生を歩んでこられた重みがあり、私の心をも照らす灯しである。
 
 まーんてぃ(真に)あてぃ(大変)ぽからすむぬ(嬉しいことだ)!

かぎ そうがつ(良い正月)

松谷初美(下地・高千穂出身)

 くぞー(昨年は)家族が体調を崩したり、自分自身も体力に自信も持ちすぎて(笑)逆に体調不良になったりと健康のありがたみをしみじみと感じた年の瀬でした。体調も良くなり、つつがなく みずどぅす(新しい年)を迎えられたことを ぷからっさてぃ うむいーうず(うれしく思っています)。宮古に帰ってきてから、たちょう(茶湯:神様(仏様)にお茶をお供えこと)をするようになり、ぴっちゃがまなー(少しずつ)方言で話し、手を合わせています。

かぎ そうがつ ぬ んみゃずたず
 (良い 正月が やって来ましたよ)
 しーむぬ ぱんびん なます たてぃだてぃ
 (吸い物 天ぷら 刺身 さまざま)
 すきもーきゆ すぅーっちば
 (お供えをしますので)
 きゅうぬ ぷからっそー んきゃぎ さまち 
 (きょうの喜びを お召し上がりください)
 トートゥガナス(尊い神様)
  
 かぎ そうがつ ぬ んみゃずたず
 (良い 正月が やって来ましたよ)
 きゅう じゃーんぬ ゆーむつぴとぅ
 (今日一番の 福をもたらす人)
 さき とぅ まーすぅ ぴとぅふつ んきゃぎ
 (酒と 真塩 を一口 召し上がり)
 ゆーゆ むたらし なうらし ふぃーさまち
 (豊穣をもたらせ 実らせてください)
 トートゥガナス(尊い神様)
  
 かぎ そうがつ ぬ んみゃずたず
 (良い 正月が やってきましたよ)
 あんな うや まい がんづぅやしー そうがつ んかい
 (母 父 も 元気で 正月 迎え)
 ういど まーんてぃ かぎ そうがつ
 (それが 本当に 良い正月)
 ういど まーんてぃ かぎ そうがつ
 (それこそが 本当に 良い正月)
 たんでぃがたんでぃ トウトゥガナス
 (有難い 尊い神様)

お知らせ

第12回宮古島市民総合文化祭・一般の部 芸術劇場「新春を寿ぐ 特選宮古の芸能」開催

 今年の「芸術劇場」は「新春を寿ぐ 特選宮古の芸能」と題して、宮古在住の琉球舞踊の家元、師範、教師の皆さんによります舞台をお届けします。家元、師範、教師クラスの皆さんが一同に会すのはなかなかありません。宮古芸能の粋を集めた舞台となります。ぜひ、この機会に足をお運びください。

日 時2018年1月20日(土)午後1時30分開場 午後2時開演
場 所マティダ市民劇場
入場料一般(2000円)、高校生以下(1000円)
未就学児(無料:要入場券)
プレイガイドTSUTAYA沖縄宮古島店・Booksきょうはん宮古南店
宮古島市文化協会
問合せ宮古島市文化協会 0980-76-6708

編集後記

 平成30年(2018年)が明けましたねー!宮古は天気も上々で穏やかな正月でした。そちらはいかがでしたかー?
 
 穏やかでいい正月だなーと思いつつ、子どもの頃のようなお正月(うきうきとした高揚感と賑やかで活気のあった)はもうすっかりなくなってしまっていることの寂しさが同時に押し寄せますね。地域が高齢化していることもありますが、ハレの日とケの日の違いが薄まっているのを実感します。
 
 今年も宮古は変化していく年になりそうです。観光客が一気に増え(海外からのクルーズ船入港や国内からの観光客の増加等)ホテルも次々と建てられています。下地島空港の利活用(パイロット養成や三菱地所による国際線ターミナル施設の開業予定)、陸上自衛隊配備計画等々。宮古も時代の波の中で生きています。変化をしながらも、宮古の誇れる自然や文化や歴史を大切にしていきたいものですね。
 
 さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
 
 あすなろさんの「稲垣国三郎」の話、第4回目となりました。宮古との関わりが徐々に明らかになってきましたね。「遅かりし1時間」の言葉は国三郎の言葉だったとは驚きでした。あすなろさんは精力的に稲垣国三郎について調査をされています。今後のお話しもどうぞお楽しみに!
 
 あの話をもう一度は、菜の花の「『火熾きの歓喜(よろこび)』の話」をお届けしました。新年を迎えることは、まーんてぃ ぷからすくとぅ(本当にうれしいこと)。その語源を改めて、しっかりと心にとどめておこうと思いました。
 
 父親に「良い正月」とは方言では何と言う?と聞いたところ「かぎ そうがつ」と言っていたので、仏壇に手を合わせるような気持で、かぎ そうがつのことを書きました。全て方言で言うのは むずかすむぬ(難しい)
 
 1月20日の芸術劇場、興味のある方はぜひお越しくださいね。宮古の芸能の素晴らしさを実感できること間違いなしです。
 
 貴方の感想もぜひ、お聞かせくださいね。
 掲示板への書き込みもお待ちしてます!投稿もぜひお気軽に〜。
 
 今年一年が皆様にとって、健康で良い一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。
 
 次号は、1月18日(木)発行予定です。
 がんづぅかり うらあちよー(お元気でお過ごしくださいね)
 あつかー、またいら!