こんにちは〜。
肌寒い日が続いていましたが、昨日は春らしい陽気で気持ちの良い一日でした。そちらはのーしーがらやー?(いかがでしょうか?)
今号も様々な内容でお送りします。vol.429お楽しみください〜。
うちは道から西にある
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古では、場所を説明するのに方角を使う場合が多い。そして、そこを説明するのに「道から〇にある」という言い方をする。(〇の中には東西南北が入る)
例えば、西里通りにあるレストランのむらは、道(西里通り)から にす(北)にあるという言い方をする。右とか左という言い方もできるが、それだとどこを向いてというのが必要になるが、方角の言い方は、どこを向いていても同じになる。
こういう言い方は、内地ではなかなか通用しないらしい。先日も東京出身の人と大阪の出身の人に、そのことについて話すと、「まず、道からって何?」と言われた。方角でいう言い方もさることながら、「道から」の意味が分からないと。「道」も「から」も標準語さいがよと思ったが、そういえば、新里博先生が宮古方言の「から」には、いろいろな使い方があると話していたことを思い出した。
例えば下記のようなものである。
(1)「どこから来たの?」「宮古から」
*動作の起点・経由点などを表す(これはたぶん内地でも使いますよね)
(2)待ち合わせ場所まで「何から来た?」「バスから来た」
*手段、方法などを表す(何で来た?バスで来た。のように「で」の部分が「から」になる。また、自分で車や自転車や徒歩などで来た場合は「から」は使わず「で」を使う。公共の乗り物など他の人が運転するものに関してだけ「から」は使う。無意識に使っているなぁ。
(3)「いみさ から どぅ うぷふなず(小から大になる)」
*原因、理由などを表す。
では「道から」の「から」は、どれに当てはまるだろう。(1)の動作の起点にあてはまりそうな気がするが、そこに動作はないので、起点だけ。ここ(道)に立って、そこからどの方角にそのものはあると説明している気がする。
若い人は、「道から〇」という言い方はあまりしないかもしれないが、結構便利な言葉だと思う。私の周り(祖父母や両親、兄たち)は、日常的に方言で「んつ から ぱい(道から南)」などと使っていたので、私も当たり前に使ってきた。使わなくなるのはもったいないなーと思う。
いきなり、オール方言は難しいけれど、こういった簡単な標準語のような方言のような言葉から宮古方言に入っていくのも良いかも。
あなたの家は、道からどの方角にありますか?
*参考資料『宮古古諺音義』新里博著
◇あの話をもう一度
菜の花(伊良部町仲地出身)
「未来予想図(おとうがぱなず 父の話)」 vol.94 2005/2/17
下地島訓練飛行場の管制塔が仕上がった時、あんな(母)と うとぅ(弟)と あー(私)は おとうに そーいぴりゃい(連れられて)管制塔のらせん階段を登った。
すたーらんな(眼下には)いんかい(海に)んかいじ(向って)真っすぐにのびる滑走路が みーらーい(見え)、うぬぱすんな(その先には)おーおーぬ(青い)てぃん(空)と いん(海)が水平線で結ばれていた。
ぱずみー みい゜(初めて見る)管制塔からの風景に見入る私の ゆかーら(横)で、うんたーき むぬい゜ざん おとう(それまで黙っていた父)が「この飛行場は君ら(島の若者)のものだ」と一言ふつ(口)にした。おとうが みーんな(父の目には)滑走路の遥か先の未来に、あたかも賑わう飛行場が見えているようだとなぜかそう思ったことを んなみまい(今でも)憶えている。
父は下地島訓練飛行場の建設工事の ぱずまい゜から しまいたーき(始めから終わりまで)関わった たうきー(一人)である。当時小学6年生(1972年)だった私が高校2年生(1978年)の時ようやく飛行場は完成した。その間父は現場で指揮をとり、やーんな(家では)くる日もくる日も図面を広げ、おびただしい数の測量写真を厳しい表情で眺めていたことだけが思い出される。
私は折々に工事現場に父と同行することを許され見学にいったことがある。埋め立ての様子も見た。32トンダンプカーが何十台も列をなして土砂を運搬する様子は、やらび(子ども)の私には衝撃的ですらあった。ぱたらつ ばはむぬてぃが(働く若者達の)気合を ちゃーすくい(掛け合う声)、活き活きとしたみぱなまい(表情も)鮮明に記憶に残っている。会社や現場には事故防止の看板が いふつまい(いくつも)そびえていた。その中でも「ケガするな!家で子が待つ、母が待つ」という標語がすぐ浮かぶ。
滑走路工事が終わり、管制塔の測量をする頃になると、父の仕事は昼夜に及んだ。管制塔の測量は つつぅのにーん(月ない)ふらよーん(闇夜)か新月の ゆなは(深夜)に、にぬふぁぶす(北斗七星)を中心に行われた。くぬとぅきゃんな(この時は)母も父のために あつーあつぬ ちゃー(熱いお茶)と まい゜ぬい゜(おにぎり)をむっち(持って)同行した。ずーぬむぬぉあらん(地上のものではない)てぃんぬぷす(天の星)を元に測量をするということは、父にとっても体験したことのない すぐぅとぅ(仕事)だった。
当時の父はとり憑かれたように働いていた。にーむぬゆん(寝言)も仕事のぱなす(話)だった。無口になり、むぬまいふぁーん(食事もしない)ことが多くなった。夜中突然起きだして、そのまま みなは(庭)にでて夜空を見上げていることが何度もあった。思春期を迎えた私にはそんな父が近寄りがたく、遠かった。
いつだったか、私は父になぜ飛行場が下地島に必要か聞いたことがある。「島にはこれといった産業がない。飛行場が出来ればそれに関連した仕事が増える。観光客も来る。島の未来が変われば君ら(島の若者)の未来も変わる。大和で勉強したら帰って来れる。島の優秀な子からはパイロットがでるかも知れん」と意気揚々と語った・・・それが父の答えだった。
どぅがっふぁ(我が子)の未来、すまの ばはむぬ(島の若者)の未来、島の未来へとおとうが みー(父の目)は、ひたすらに未来に向いていた。私もっふぁ(子)を持ち、すぐぅとぅ(仕事)を持ち、かぬとぅきゃぬ(あの時の)父の とぅす(年齢)に つかふなす゜んなみやりばどぅ(近くなった今こそ)父が のーゆ(何を)思っていたかが分かる気がする。
うりかー(あれから)何年もの時間が過ぎた。一度は旅客線となったこともあったが、んなみゃー(今では)ジャンボ機の飛行訓練の他、米軍機が着陸したとのニュースがたまに流れる。父はあの世でこの様子をどう見ているのだろう。複雑な思いで「下地島訓練飛行場」という ずー(文字)を目にする中、父の書棚から「郷友会誌いらぶ」と書かれた20年余前の本を見つけた。
うぬ(その)なはんな(中に)「下地島の松中野原(まつなかぬー)に「黄金の番父がま(くがにのばんうやがま)」という人がいて、連日連夜灯りをともし黄金の番をしていた。その灯りは、佐和田の浜に漁りに行く晩には、よく見られたという事である。(中略)この黄金は伊良部島の為、役立ててもらう為に番をしているということであった。この位置は現在の下地島訓練飛行場の滑走路真中あたりという。伊良部島の人達は昔の松中野原の黄金の番父の灯りは今飛行場(黄金)の灯りと変わっている。昔からの言い伝えは本当の事であった。と話している」(以後略)
「郷友会誌いらぶ」昭和57年発行 P99 下地島の伝説:松中野原(まつなかぬー)・黄金(こがに)の番父がまの話佐和田カニより収録
この伝説が本当なら、島の未来への遺産として黄金の灯りをともし続けられる飛行場であって欲しいと願う。
福里声合(ふくざとクイチャー)との出合い
カニ(平良・西里出身)
平成10年、22年ぶりに私は故郷・宮古島に戻り職につくことができた。平成13年夏、その頃に城辺町民祭りが開かれ観に出かけた。町民祭りでは国吉源次氏が「新城クイチャー」を歌い、新城クイチャー保存の会・部落の方々が舞台で まきぶどす°(巻踊り)を披露していた。驚いた。躍動的でいきいきしていた。漲水クイチャー踊りとはこんなにも違うのか、と感動した。
宮古島ではクイチャーフェスティバルが平成14年から開催されていた。第1回、第2回と観に出かけた。興味は各部落の伝統クイチャーだった。第2回の時だった。謝敷正原氏率いる福里クイチャーが披露された。福里クイチャーは蛇味線も使わず各人で声を合わせて唄いそして跳ね躍る、素朴なクイチャーとして目に映った。蛇味線の演奏なくても皆が声を合わせればこんなにも心に響いてくるものか、これこそクイチャーの原点だと感銘した。
私は初めて聞いた時から「福里クイチャー」がお気に入りとなった。それも謝敷正原兄弟で歌う天につくような声に魅了されたからだ。ぜひ覚えたいと思い謝敷正原爺に伝えた。正原爺と奥さん2人がこの歌の歌詞を丁寧に教えてくれた。この「福里クイチャー」の後半部はメロディが変わる。さらに素朴な感じになり敬虔な心に自然となる。自然に手を合わせたくなる。いつでも私にはこの謝敷兄弟の歌う「福里クイチャー」の唄と踊りが心に宿っている。何だか心が豊かになっていく気さえする。
平成25年4月、お世話になった謝敷正原・タルー爺が天国へ旅立った。タルー爺は働き者で物知りでもあった。宮古島の古謡を愛するというところで気が合った。タルー爺から頂いた大事な宝物・直筆の「福里クイチャー」歌詞は私の手元にも残っている。遅くなりましたがここにおいて謝敷正原爺に感謝の意を表する。そして歌詞を紹介する。
福里声合(ふくざとクイチャー) <巻踊り> にすぬ(北の)いむぬ(海の)ぱなむつぬ(海岸の)まかやだきよ (北海岸の断崖に生える 風に靡くまかやのように) さぁさぁ さぁさがゆーぬぅ ひやるがひい さぁさゆいさがゆいさ (ハヤシ) ばんた(私達)が ぶどぅ(踊)らばな しゅうまんなぁ すざ(兄) (私らも踊ろうか 踊りたくてうずうずしているよ 兄さん) しゅうみどぅ ウす°(居る)どぅ なゆりどぅウす°(居る)どぅ (私もうずうずしてきたよ 身体もわくわくしてきたよ) 1.此処(くま)ぬ神様(かむ)ま 祈願(にがす°)栄(ぱい) 神様(かむ)やらまいばよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ 神様(かむ)やらまいばよぉ (ここの神様はね 願いを叶える繁栄をもたらす神様ですよ) 2.にがす°(祈願)とぅや てぃかみ(手拝)とぅや ぱぁい (繁栄)さまちよ (ハヤシ)よいまぁぬ ぱぁい(繁栄)さまちよ (願いをし 手を合わせればね 繁栄しますよ) 3.ばんた(私達)が にがす°(祈願)ぬ あだ(無駄)んゆなす° ちまいぬありゃーよ (ハヤシ)よいまぁぬ ちまいぬありゃーよ (私の願いはね 無駄になることはありませんよ) 4.こまこま(此処此場所)ぬ ゆしゃす°(寄合)か(美)ぎ みなかがま(庭小)んなよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ みなかがま(庭小)んなよぉ (この願いをする場に 皆が集まってくるのは素晴らしい光景だね) 5.ばんた(私達)がど あごた(友達)がど ゆりゃあす°(寄合) しーゆす°よぉ (ハヤシ)よいまぁぬ ゆりゃあす°(寄合)しーゆす°よぉ (私たちがね 友達たちがね 集まっていますよ) 6.あす(遊)ぴみや ぶどぅ(踊)りみや きゅう(今日)だらよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ きゅう(今日)だらよぉ (さぁ遊ぶのはね 踊るのはね 今日なんだよ) 7.あつぁ(明日)ぬ てぃだ(太陽)ぬ むま(午)ぬす° とぅき゜(時)あがら(上昇)ます°きゃよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ あがら(上昇)ます°きゃよぉ (明日の太陽は午の刻に上がってきますよ) 8.かむ(神様)からまい しずからまい あらんそがどぅよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ あらんそがどぅよぉ (私らは神様でもなく聖なる人でもありませんがね) 9.ぶどぅら(踊)にゃてぃ いぬつ(生命)ぬ ながつぎ(長続) むぬなよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ ながつぎ(長続)むぬなよぉ (踊らなかったら 長生きするものですか) 10.あすぱ(遊)んにゃてぃ むむてぃ(百年)ぬ やふ(厄) はりむなよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ やふ(厄)はりむなよぉ (遊ばなかったら 百年の厄が付きますよ) 11.ぶどぅら(踊)ばど あすぴ(遊)ばど かむ(神様)ま まふ(守護)よぉ (ハヤシ)よいまぁぬ かむ(神様)ま まふ(守護)よぉ (踊ればね 遊んだらね 神様が守ってくれますよ) 12.ぶどぅら(踊)でぃやちか なつあみ(夏雨)ぬにゃん ざらみかしがーよ (ハヤシ)よいまぁぬ ざらみかしがーよ (踊ったらね 夏雨のように雨が激しく降りますよ) 13.あすぱ(遊)でぃやちか ゆあみ(夜雨)ぬにゃん ざらみかしかーよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ ざらみかしかーよぉ (遊んだらね 夜雨のように雨が激しく降りますよ) 14.てぃ(手)ぬ ふぎがま(首小)んな まぬき゜(手招)ばら いでぃ(出)さます°きゃよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ いでぃ(出)さます°きゃよぉ (手のひらにね 胼胝(たこ)ができるほど手招きしようよ) 15.ぴさふぎがま(足首小)んな とぅぬぎ(踏踊)ゆ ばら いでぃ(出)さます°やきゃよぉ (ハヤシ)よいまぁぬ いでぃ(出)さます°きやよぉ (足の裏にね 胼胝(たこ)ができるほど飛び跳ねようよ) 16.うるば すてぃうき あやぐば かい すぅらかさでぃよ (ハヤシ)よいまぁぬ すぅらかさでぃよ (この歌を終わりにして 次に歌を変えて 盛り上げていこうよ)
お知らせ
■春の宮古島芸能祭り
ばんたが(我らの)、マツカニさんこと棚原芳和さんが率いる棚原芳和民謡研究会主催の「春の宮古島芸能祭り」が開催されます。春の一日、民謡でぜひお楽しみください。
日 時 | 2019年3月30日(土) 開場:17:30 開演:18:00 |
場 所 | 宮古島市中央公民館大ホール |
出 演 | 浜崎瑞姫、長嶺南海花、うりずん娘、うりずん娘ジュニア、仲間美幸 吉田里香、棚原芳和、儀間正雄(友情出演)、前粟蔵秀夫(友情出演) 池間美代子琉舞研究所(賛助出演)宮古民謡協会(賛助出演) 徳八流太鼓保存会松堂亨研究所(賛助出演) |
料 金 | 1,500円、高校生以下1,000円、乳幼児無料 |
チケット販売 | TSUTAYA沖縄宮古島店 |
お問合せ | 棚原 090-9382-4886 |
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
3月9日、10日、狩俣で「祖神祭」の写真展が開かれ、行ってきました。狩俣の集落センターで開かれた写真展には、写真だけでなく「祖神祭」に使われる道具などや絵画も展示され、とても興味深いものでした。東京から宮古に帰った狩俣のタイラーが案内してくれ、神歌についても、いろいろ説明を聞くことができ、その奥深さに驚くやら感動するやら。タイラーも元気でしたよ!
3月17日は、「みやこじま青少年国際音楽祭」がマティダ市民劇場で行われました。ばんたが(我らが)さどやませいこさんの民話朗読に合わせた音楽でスタート。民話とクラッシックのコラボ、良かったです!また、世界的な活躍をされている方々の演奏の見事なこと。すっかり魅了されました。最後は、古謝美佐子さん登場。弦楽器との共演、素晴らしかったです。いい時間を過ごしました。
さて、今号のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
普段何気なく使っている言葉。よその人から言われて、通常は使わないということに気づくことありますね〜。そんなものを拾ってみました。言葉は深くて、掘っていくほど(まだ浅いですが)面白さが増してきますね。
伊良部の下地島空港が「みやこ下地島空港ターミナル」として今月30日に開港しますね。竣工記念式典が16日にその翌日17日には一般公開がありました。残念ながら私は行くことができませんでしたが、17日、伊良部大橋は、数珠繋ぎの渋滞だったそうです。ターミナルはリゾート地の雰囲気で施設内の各所には、宮古織りや宮古の工芸、宮古の焼き物、お土産品などが並べられるとのこと。ジェットスターの成田ー下地島便、7月には関西国際空港便、香港エクスプレスが香港ー下地島線で就航予定だそう。伊良部が大きく変わっていきますね。
その開港に合わせて、今回のあの話をもう一度は、菜の花の「未来予想図(おとうがぱなず 父の話)」をお届けしました。下地島空港ができたのは今から40年以上も前のこと。当時はパイロットの訓練場だったんですよね。それから、いろいろあり、今回の開港。菜の花は喜ぶ気持ちと島の様変わりに戸惑う気持ちがあり、少し複雑だということでした。変わっていくけれど菜の花のお父さんたちが苦労をし、どんな思いで作ったかということは、ばっしだな(忘れずに)いたいですね。
カニさんの「福里のクイチャー」は、なかなか聞くことはないですねー。貴重なものをご紹介いただきました。歌いながら、踊りながらとても楽しんでいる様子も伝わってきました。謝敷正原・タルー爺さんとの交流もきっと楽しいものだったのでそうね。いつか聞いてみたいです。
マツカニ(棚原芳和)さんの「春の宮古島芸能祭り」、沖縄本島からたくさん参加しての芸能祭りになるようですよ。チケットの購入はどうぞ、お早目に〜。私は司会で参加します。みなさん、んみゃーちよ〜。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。投稿もぜひお気軽に。まちうんどー
今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜〜。
(今回も最後までお読みくださりありがとうございました)
次号は、4月4日(木)発行予定です。
うぬとぅきゃがみ がんづぅかり うらあちよ〜。
あつかー、またいら〜。