こんにちは〜。暑い夏が近づいている宮古です。 がんづぅかり うらまずなー(お元気ですか)?
vol.433お届けです。お楽しみください〜。
下地小学校高学年野球部と川満の棒踊り
クイチャーマン(下地・与那覇出身)
ふるさとに関わっていると、予期せぬ嬉しい出来事や情報に接することがある。この春から若夏にかけてもそのような体験をした。
3月24日の夜、私は1本の電話を宮古島に掛けた。4月7日に浦添市のてだこホールで開かれる「第31回芸能まつり」(沖縄宮古郷友連合会主催)に「川満棒踊り保存会」が出演することが決まっており、司会担当の私は取材のため関係者と連絡を取り、保存会の会長の名前と電話番号を教えてもらった。関係者は「会長は忙しくていまは宮古にはいないはずよ」ともいう。そのためか、翌日会長のケイタイに電話したが対応はなかった。
予期せぬ出来事の舞台は翌3月26日の沖縄セルラースタジアム(奥武山球場)であった。この日は春の県高校野球大会の宮古高校の初戦が同球場であり、心を躍らせて3塁側の応援スダンドへ。結果は首里高校に3対6で逆転負けを喫した。初戦敗退は残念だったが、そのスタンドで嬉しい出会いが待っていた。
私はいつも球児の父母の席にいっしょに陣取って応援することをモットーとしている。父母席では「宮古なまり」や「みゃーくふつ」、選手に向けた激励の「やぐい」(大声)などが飛び交う。その中に身を置き、私も指笛を吹いて応援に参画する。ずみ!(最高!)だ。
この日の父母席の前に、野球のユニホームを着た小学生の選手たちが2列に並んで座り応援している。見慣れない光景だったが、下地小学校の子どもたちだという。「いい、あんしーな。ばが こうはい ぬきゃーしぇーか」(おお、そうか。私の後輩たちではないか)と、席を立って子らの席にいた監督と会い話を伺った。
監督の話によると「下地小学校高学年野球部」(4〜6年生で組織)は11年ぶりに宮古代表で県大会に来たという。初戦で敗れてしてしまったが、宮古に帰る前に先輩たちの応援に駆け付けたとのこと。最後に監督のお名前を伺った。川満朝和さん。「おごえー、あんしぬくとぅてぃーめーどぅ あーしぇーか」(なんとなんと、こんなことともあるものだ)その監督は川満棒術保存会の会長さんであった。私たちはその場で一気に盛り上がったが、野球の試合中であり「詳しいことは後日電話で」となった。
その後の取材で川満会長は「川満棒術保存会が結成されたのは平成7年10月14日である。約20名の会員で毎月定例会を開いて練習や意思疎通を図り、伝統を引き継いで敬老会などで踊っている。川満の青年たちも頑張っている」と語ってくれた。そして「嬉しい話もありますよ」と付け加えた。下地小学校高学年野球部が、県少年野球連盟の推薦を受けて広島県三島市で開かれる「第3回小早川隆景杯軟式少年野球大会」(5月3日〜6日。三原市少年野球連盟主催、三原市、同教育委員会後援)に派遣されることになったという。
4月7日の宮古郷友連合会の芸能まつりには、川満棒踊り保存会から9人のメンバー(歌・三線・鳴り物4人、踊り5人)が出演し、短めの棒を力強く振り回し、円陣を組んで飛び上がったりしながら一糸乱れぬ演舞を披露して好評を博した。会場に駆けつけた川満出身の方々も身を乗り出して大きな拍手を送って盛り上げていた。川満会長は都合で参加できなかったが、副会長を中心に頑張っていた。
先日、川満会長&監督(45歳)に電話して、芸能まつりでの演舞の盛り上がりを伝え、三原市での野球大会の結果を聞くと川満さんはこう語った。「芸能まつりの模様は5月11日の保存会の総会のときビデオで見た。本来二つの円陣での踊りだが、その日は一つの円陣での踊りとなった。総会で会長を垣花敏弘さんにバトンタッチした。野球大会では、3回戦まで進むことが出来た。沖縄から派遣されていたもう一つの高良カープが決勝で私たちが敗れた京都のチームに勝って優勝したので良かった。子どもたには広島市の平和記念資料館を見学させてから宮古にもどった」。
川満棒踊り保存会長になりたてほやほやの垣花敏弘さん(46歳)にも電話してみた。垣花さんは「川満の棒踊りがいつごろから踊られるようになったのかはよくわからないが、保存会が平成7年に立ち上がって、平成〜令和と引き継ぐことが出来ているのは嬉しい。若い人たちに繋いでいきたい」と抱負を語った。
下地に伝わる伝統芸能の保存団体としては、川満棒踊り保存会のほか、与那覇ヨンシー保存会(平成11年2月結成)、下地原クイチャー保存会(平成18年8月結成)が知られている。保存・継承には会長のリーダーシップと関係者の決意と情熱、地域の人達の理解と協力が不可欠である。有意義な活動であり、楽しく発展させてもらいたい。
下地小学校高学年野球部では、川満監督も小学生のころは同チームの選手だったそうで、長い伝統を誇っている。2012年プロ野球千葉ロッテにドラフト2位指名された川満寛弥(ひろや)投手や興南高校で甲子園出場を果たした川満昴弥(たかや)投手も同チームの出身だという。母校の生徒たちの各分野でのいっそうの活躍を期待している。
◇あの話をもう一度
宮国勉(城辺・西城出身)
「ばんたがやーぬつかふ 13」 vol.96 2005/03/17
北にミルク峰、南は野原岳(のばるだけ)の尾根で挟まれた所に西中部落が在る。西中部落は、ゆなんだき、東底原、中底原、西底原の集落に分かれ、ゆなんだきの中程を県道198号線が東西に通り抜けている。
ばんたがやーや(生家は)、県道から北側でミルク嶺のふもとの少し高台にある。いずぃかた ぬ ゆまた(西の方のT字路)は、ミルク嶺への登り口で少し んみがま(登坂)になっていて、雨が降るとすぐ がーら(水路)を作って流れ出すので、何時も石ころがごろごろしていた。ゆまたとは四つ角を意味するのだが、なぜか解らないがT字路をゆまたと呼んでいた。帰郷の際、その坂を登りきると帰り着いたことに一息つくのである。
子供の頃に大人達が都会に出て働き、正月などになると、その ゆまたから白い歯をのぞかせて帰ってくる。駆け寄り荷物を持つ、迎える幸せ感、土産の期待も大きかったのだろうが、幸せの始まりがその場所となっている。そこは今ではアスファルト舗装され、坂も緩やかで周りには家が建ち、昔の面影はないが、目を閉じると子供の頃に凧揚げをした楽しそうな残像が浮かんでくる。
ミルク嶺からの眺めは最高で大神島など島全体が見渡せ、特に山の上に舟が浮いている風景は錯覚に陥っているようである。上野村の野原岳レーダー施設を のばりぐす ぬ んーぶ(野原越のへそ)と呼び、いつも2つ並んでいた。その んーぶも台風で飛ばされたりして台風の大きさのバロメーターであった。
んーぶ と同じ方向に西西部落の旧製糖工場の名残で煉瓦積みの古い煙突が立っている。初夏にはそれらを囲むように虹ができて、煙突の煉瓦色と砂糖きびの緑のコントラストに七色の虹がアーチをつくる、出現するといいことが有りそうな気がした。
ミルク峰一帯にはポー(和名:クロイゲの実=大きさ5?位の黒い実でブルーベリーを小さくしたような感じで甘い実)が岩の上や、ぬー(小さい野原)、又は畑の境など、どこにでもいっぱい実っていました。今では絶滅危惧種に成りそうである。普通は真っ黒だが透き通った朱色の変わり種がミルク嶺の御獄の周辺にもあった。子供の頃は弁当箱や つが(枡)に溢れるほど採れた。
ぽーんぎー(クロイゲの木)は地面を這うように地表を覆い、枝には鋭いトゲがある。子供の頃は靴を買う余裕も無いので、山へも さば(ゴム草履)を履いて行きました。さばで ぽーんぎー「クロイゲの木」の上を歩き、ちょっとへまをすると足の裏にズブリとトゲを刺して、トンベン(竜舌欄)のお出ましとなる。トンベンの葉の先端が ぴづ(針)に早変わりしとげ抜きになるのである。
子どもの頃は殆どの家が農家で、畑を耕すのに まーやま(木で出来たすき)又は、すきを使い必ず馬を養っていた。まーやまとは角材を組んで耕す部分に鉄製のヘラを取り付けて、馬に引かせるすきのことである。根石などに当たると簡単に折れてしまう、しかも深く掘り起こせないのが欠点である。
ある時、母親に”男はそれ位出来ないでどうする”などと嗾けられ ずーすきぃ(畑を耕すこと)に挑戦した。だが、んたがーら(土塊)の上は歩き辛く、馬の早さにに追いつけず、馬と まーやまが地表を無人で走って行く。少年はんたがーら(土塊)と相撲を取り、まともに操作出来ず今に至る。すきは全てが鉄製で重く、まーやまに比べて丈夫で深く耕せるのである。宮古の農具への叡智が垣間見える まーやま、すき、ぴら(へら)、などがどこかに残っていないだろうか。
昔の母親は怖かった、今ではにこにこして孫等にお世辞だけで接しているが、あの恐ろしい、かあちゃんはどこへやら。小、中学生の頃、そのかあちゃんに丸くなれ、くぱうちゃ っすぅな(怒りっぽい口調をするな)と、耳にタコが出来るほど注意された。
しかし、性格は簡単に直るわけがなく、今でも自分の欠点は削るよりカバーするほうが利に適うんだろうと常々思っている。少しは反省したが、削りすぎて自分が融けてしまいそうな時が多々あり軌道修正した。自分の欠点を自覚して理性を信じ行動するほうが、人生を楽しく生きられるのではないかとも思った。
つまり、好きに生きることが自分のためになり、他人をも喜ばせることが出来るだろうと思う。若いときの ふぎゃまさ(怒りっぽい)は、責任や向上心の塊だと思う。証拠に怒ることは相当なエネルギーが要る。若さを保つには欲と好奇心があれば大丈夫ではないかと思うのだが。
「かあちゃん!あなたの遺伝子ありがとう」。んにゃ おしまい。
アダンと暮らし
與那覇 淳(平良・鏡原出身)
「あれはパイナップルですか」アダンを指差してそのようにたずねる観光客に何度もお会いしています。実が似ているのでそのようにたずねるのも分かります。黄色に熟するといかにも美味しそうに見えるので、よく「食べられますか」とも訊かれます。
アダンの実は集合果でスナックパインのように一つひとつの小さな塊で構成されています。ひとつの塊の先端部分は柔らかくなっていて、子どものころはかじって ぴーっちゃがまぬ(わずかな)甘みを楽しんだものです。少量ながらも食料とされていた名残なのか、私が子どもの頃、お盆にはアダンが仏壇お供えされていました。今ではその座はパイナップルに代わっています。
昨年だったか、池間島で開催された「アダンサミット」で、石垣島の料理としてアダン葉を用いた料理が紹介されていました。アダンの葉の新芽を米のとぎ汁でゆがいてあく抜きして煮物や炒め物にすると、筍のような料理ができあがります。石垣島では法事などの行事料理や精進料理に供されているようです。
タコノキ科タコノキ属の常緑の小高木。宮古島では海岸べりで うぱーさ(多く)植生していますが内陸部でもみられます。幹から気根がいくつも伸びて接地して地面に潜り込んで支柱根となり、台風にも耐えられる生命感あふれた樹木です。
この木はかつて島人の暮らしを支えてきました。幹は家の柱となり、その柱を用いた家は、アダンばらやー(あだんの柱の家)と呼ばれていました。気根は「あだなす」と呼ばれ、50センチ程度になると切り取り、鎌で縦に平たく割いて天日干しにします。乾燥するとさらに細かく割いて糸状にしてこれで縄をないます。この縄であらゆる農具や漁具がつくられました。牛馬の鼻綱や おーだ(もっこ)、あんでぃら(芋を入れるかご)魚をいれるかご等です。葉はむしろやぞうり、かごなどのほか風車やラッパなど子どものおもちゃの材料としても使われました。
1950年代の初め頃、宮古にはアダン葉を材料にして帽子やかごなどをつくる工場があったようです。長らく途絶えていましたが、最近、アダン葉を生かした手作りグループの活動が活発で、先日、宮古伝統工芸品センターで開かれた「すだーすぬぬと今の工芸市」でも、アダン葉の帽子やバック、ブレスレットなどのアクセサリー、まーすぅ(塩)袋などの雑貨類が展示販売されていました。
先人たちは周りにある植物を食し、道具に変えて暮らしに役立ててきました。その自然の恵み・野草や道具は近代的な食品や製品の興隆で影をひそめてしまいました。道具をつくる過程では人間の知恵や工夫がいかんなく発揮され、作る喜びを知る“豊かさ”を享受できていたのだろうと思います。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
大型連休も終わりましたね。10連休という方も多かったかもしれませんね。いかがお過ごしでしたでしょうか。私も久しぶりの続けての休み。うちと実家の庭の草むしりに精を出しました。あがんにゃよーい(まぁ)こんなにも生えるものかと思うくらい伸び放題。やりがいがありました。
母の日の前日は、母と母の妹たちといとこと5人で、ランチをし、下地島空港までドライブ。ぞうわーつき゜で(天気も良く)伊良部大橋からの海の眺め、ずみ(最高)でした。下地島空港は広くて、内装も木造で素敵でした。帰りは、佐良浜経由で、港のすぐ近くにある「いんしゃ(海人)の駅 佐良浜」(ここお勧めです!)の魚屋で、水揚げされたばかりのグルクン、イカ、イラブチャーの刺身を購入。帰りの車の中では、グルクンにまつわる昔の話もたくさん出て大盛り上がり。久しぶりに小さな旅を楽しみました。
さて、今回のくま・かまぁ のーしがやたーがらやー?
クイチャーマンさんのお話、びっくりですね〜。こういう出会い、繋がりもあるんですね。ぴるますむぬやー(不思議なものですね)。また、こうやってふるさとの芸能を守り続ける方たちが頑張っているお陰で今もそれを見ることができるんですよね。感謝です。
淳さんのアダンのお話は、懐かしく読まれた方も多いのではないでしょうか。アダンは宮古の民具を語る上でも欠かせない植物ですね。実家にもおーだや あんでぃらがありました。今またアダンが見直されて、帽子が作られたりしていますね。今後の広がりも楽しみです。
掲示板に書き込みがありましたので、ご存知の方も多いと思いますが、くま・かまのライター宮国勉さんが5月1日にお亡くなりになりました。最後に会ったのは、昨年10月宮古に帰省されていて、市民総合文化祭の会場でした。とてもお元気で、やぱーやぱの(優しい)お顔もお変わりなく、お話をしたのですが、それが最後になるとは・・・。本当に残念で仕方ありません。
宮国さんのメルマガでの最初のお話は「トンベンはお酒でしたか?」(2004年12月2日vol.89)というタイトルでした。投稿をきっかけにライターに。これまで、動植物の話、島での生活のこと、旅行の話などたくさん書いてくださいました。同じ宮古でも知らないことも多く、いろいろ学ばせて頂きました。特に植物の方言名にとても詳しかったですね。
今回は、宮国さんを偲び、あの話をもう一度は、宮国さんの実家付近のことを書いた「ばんたがやーぬつかふ」をお届けしました。自然に囲まれた集落に生まれ、豊かな感性が育ったんですね。今頃、自分のふるさとの様子を見にきたりしているのかもしれませんね。心よりご冥福をお祈りいたします。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよ〜)
今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜〜。
(今回も最後までお読みくださりありがとうございました)
次号は、3週間後の6月6日(木)の発行予定です。
うぬ ときゃがみ がんづぅかり うらまちよー(その時までお元気で)あつかー、またいら〜。