んにゃ、12月んどぅ なりにゃーん。(もう12月になってしまいましたね)
ぱんたーぱんたぁしー うらまずてぃ うむぅすぅが ぴっ ちゃがま ゆくいー メルマガままい ゆみふぃーさまちよー。(お忙しいと思いますが、少し休んでメルマガも読んでくださいね)
宮古方言は“縄文語”の生き残りか?
ひさぼう
うしろを振りむくと 親である 親のうしろがその親である その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに 親の親の親ばっかりが むかしの奥へとつづいてゐる
これはご存知、山之口獏「喪のある景色」の前段である。この要領で奥へ奥 へと辿って行くと、これは間違いない事実として自分の遠い遠い祖先にめぐり 合う。
私の母は、明治39年生まれで、私はこの母親に100パーセントの宮古方 言で育てられた。この あんな(母)は、純農家の娘だったから、このあんな も又完璧な宮古方言で、そのあんなに育てられたに違いない。このあんなのあ んなはどうかというと、そのあんなも又完璧な宮古方言で、そのあんなのあん なに育てられたに違いない。 そのあんなのあんなの又あんなはその後ろのあ んなにという具合に、宮古方言は、ずっとずっと続いてきた。そうすると、そ の奥の奥へと辿ったその先はどうなっているのだろう。
宮古島には、「ピンザアブ人」という2万年以上前の古代人の骨が見つかっ ている。
ばーやー(私は)ホモ・サピエンスである。そのホモ・サピエンスの生まれ 故郷は、アフリカ大陸だという。新人類に進化した人間は、今から10万年以 上前、アフリカを出て、世界中に広まって行ったのだという。
ばんたー(私達は)、モンゴロイド、黄色人種である。アフリカを出発した 新人類のあるグループが、アジア大陸でモンゴロイドになり、どういう径路で か、日本列島にやって来る。あるいは、はるかシベリアを越えて北アメリカに 渡り、さらに南下して南アメリカの最先端まで行ってしまう。あるいは又、東 南アジアから太平洋の島々に渡り、さらにはオーストラリアまで行き着いてし まう。こうしてモンゴロイドは、アジア、南北アメリカそしてオーストラリア から太平洋の島々の先住民になっていった。
奄美諸島から八重山諸島までを結ぶ線は、琉球弧と呼ばれて、きれいな弧を 描いている。その昔、おお昔、歩いて渡れたらしい。大陸からも、インドネシ アあたりからも歩いて来れたらしい。そのことの証なのか、沖縄本島では「港 川人」という縄文人より古い時代の人骨が見つかり、宮古島の上野では、もっ と古い「ピンザアブ人」が、ぴんざ(山羊)ではなく、鹿の骨といっしょに見 つかっている。ただ、これがそのまま縄文人になったのか、今のオキナワ人に なったのかはわかっていないらしい。
宮古方言は、日本語のひとつである。南北というか、南西から北東に長い日 本列島は、北は北海道から、最西端の与那国まで、その使われている方言は、 それこそ様々だけれども、世界のことばの分類として見る限り、ことばの種類 は、日本語として一つのグループである。そうすると、宮古方言は、その始ま りを考えるにあたっては、宮古島の中だけで、あるいは沖縄諸島の中だけで考 えるわけにはいかない。
日本列島の中の宮古島に、宮古方言を使う人間が、いつ頃から住み始めたか を考えるには、ばんた(我ら)ホモ・サピエンスが、アフリカを出てからアジ ア大陸に進出し、さらには日本列島に辿りつくまでの、はるかな旅路を、その 背景として思い描かなければならない。
本土の縄文時代は、一万年以上続いた。そしてその時代、日本列島の人口は 最大で30万人くらいと推測されるらしい。その30万人がしゃべっていたこ とばを例えば「縄文語」だとすると、今の宮古の方言ですら、地域によってい ろいろな言い方をされているから、その「縄文語」も広範囲な地域に渡って種 々様々な言い方をされていたに違いない。いやそんな程度ではなく、列島には、 北から南から、大陸、半島からと、方々からモンゴロイドはやって来たであろ うから、“多言語状態”だったに違いない。
さて、あんなからあんなへと継承されて来た宮古方言は、一体何代前のあん なの時、海を渡ってやって来たであろうか。仮に一世代を25年とすると、1 00人目あたりは、2千500年前になる。200人だと、5千年前である。
日本列島に、今住んでいる人達を、モンゴロイドとして分類すると、縄文人 系と弥生人系になるという。遺伝子やら血液成分やらを分析してである。それ でどういうのかと言うと、一番先に日本列島にやって来て定住した縄文人系グ ループと、後からやって来て、その縄文人と混血してできた弥生人系グループ とである。ただし、白黒はっきり分かれるというのではなく、その混ざり具合 で濃淡が出てくる。
地図上でその分布を見ると、北九州から山陽、近畿地方を中心に、周囲に拡 がるように弥生人系があり、縄文人系は周辺に濃くなっていく。これで見ると、 ばんた宮古方言族は、縄文人系ということになる。そして、本土方言に対する 琉球方言のなかでも、宮古方言は最も古いことばを残しており、それは「古事 記」「日本書紀」「万葉集」などに散見できるという(後述、新里さんのご本 等)。
ホモ・サピエンスという名前は、知恵あるヒトという意味だそうだけれども、 アフリカ大陸で誕生して以来、全大陸を歩き渡り、海洋上の島々にまで行き着 いているところから、ホモ・モビリタス すなわち、移動するヒトという名前 もあるらしい。
なんのために、又どうやってという湧きあがる疑問もどこへやら、ばんたが 遠い遠いあんなたちは、間違いなく宮古島にたどり着いた。自然の循環に身を まかせ、野生そのままの感覚と“語り継がれたことば”を持って、宮古島にや って来た。
これは、この五月に伊良部ご出身の新里博さんが出版された「宮古古諺音義」 (渋谷書言大学事務局刊 全648ページ)をひと通り読み終り、その中で 「縄文語」ということばを見つけて、啓発され、うむうがにゃあん(思うがま まに)書いたものです。
その他の参考文献:『モンゴロイドの道』(朝日選書523)
お店紹介15《アート企画》
松谷初美
アート企画は看板屋である。店舗は宮古支庁西隣にある。店の看板からネオ ンや横断幕、イベント用のアーチやアドバルーンなど、その営業種目は多岐に わたる。今年創業30周年を迎えた。
宮古に看板が作られていたのは、明治や大正の写真からも知ることができる が、「看板屋として宮古にお店がでたのは、昭和35年ごろだと思う」と話すの は、アート企画の初代店主、垣花健志さん。
宮古初の看板屋「近代PR」の伊川氏は、昭和30年代前半まで映画館のポス ターを書くことを主な仕事としながら、店の看板なども書いていた。しかし映 画の大型ポスターが内地から届くようになると映画館の仕事がなくなり、昭和 35年頃、本格的に看板屋として営業を始めた。昭和39年には宮古で2軒目とな る「国工房」が、昭和48年に3軒目の「アート企画」が開業した。宮古には今 10数軒の看板屋があるが、いずれもこの3軒から独立した職人たちで、みなさ ん仲がよく繋がりも強いのだそうだ。
垣花健志さんは宮古の中学を卒業すると、まず那覇の看板屋に就職した。昭 和40年のことだ。1ドルでも やまかさ(多く)給料をもらいたい一心で休み の日も欠かさず、まいやがぴにつ(毎日毎日)新聞紙に文字の練習をした。家 庭の事情で1年で宮古に戻るが、宮古でも看板屋に就職する。そして3年目に は、たうきゃーしー(ひとりで)自転車の荷台にペンキを積み看板を書いて回 るまでとなった。そして昭和48年にお店を開き、宮古で初めてテント看板の製 作を手がけた。
昭和40年ごろまでのお店の看板は全部トタンで作られ、3〜4年もするとペン キが剥がれてくるため、間伐材の丸太で足場を組み、書き直していた。現在ト タンは焼付け塗装され半永久的になり、建物もコンクリートになって、書き換 えの仕事も極端に減少した。当時は、年末ともなると、お店の看板の書き換え や、年末大売出しの横断幕、懸垂幕の製作で大忙しであったが、新聞の普及に より、大売出しの宣伝はチラシにとって代わられた。
現在の「アート企画」は、二代目厳志さんが主にやっている。今は、手書き のものより機械(インクジェット)を使っての作業が多いそうだ。また最近で は、イベントを中心に幅広い広告事業にも取り組んでいる。イベントに使う看 板やアーチを作ったり、舞台やテープカット用具一式のリースも行っている。 お店の25周年、30周年記念には、警察署・交通安全協会に立て看板を寄贈し、 地域の交通安全に寄与したとして感謝状も贈られた。
現在の看板屋の仕事は、広範囲にわたっているが、昔ながらの手書きの看板 は、少なくなってきているようだ。自分の腕ひとつで書いたり作ったりする技 術からデザインをインクジェットなどで出力する時代になった。修行時代、ま いやがぴにつ 新聞に文字を練習した健志さんは、機械化の波を前に寂しい思 いをすることもあるという。二代目厳志さんは、そんな父親の思いも受け継ぎ ながら、新しい時代の看板の仕事に精力的に取り組んでいる。
《アート企画》
平良市下里1177-1
電話:0980-72-4402 FAX:0980-73-5551
店主:垣花厳志(二代目)
※ホームページの「お店紹介」のページでは、写真入りで紹介しています。 今回は、アート企画さんよりご提供いただいた昔の宮古の看板の写真も掲 載しています。合わせてご覧下さい。
いでゃあい(出会い)3 <長身の子ライオン>手登根渉(てどこん・わたる)さん
宮国優子
プロゴルフの宮崎藍さんは今や時の人。初デビューを飾った伊藤園レディー スで彼女のキャディーをつとめたのが、伊良部島・国仲出身の手登根渉(てど こん・わたる)さんなのだ。
先日取材に千葉県茂原まで行ったが、往復8時間にかなり ぶがりて(疲れ て)フラフラ。しかしそれをも吹き飛ばすほどの風が吹き抜けたってば。彼の 爽やかさは宮古の初夏の風のように吹いておりました。19歳はまぶしかった です。186センチのすらっとした躯で、欧米の俳優のような ぞーぎにせぇ (かっこいい青年)。言葉を選んで真摯に答える表情にこっちがなんだか ど ぅぐりー(気恥ずかしく)になる始末。「無口で笑わない、誉めない父ちゃん にいつか活躍を見て欲しい」と話していた彼。そして「プロに、稼げる選手に なりたい」とよどみなく力強くお話ししてくれました。宮里3兄妹を育てた父 でティーチングプロの宮里優氏の一番弟子として朝から晩までゴルフ漬けの毎 日のようですが汗ふさりた(汗くさい)様子も微塵もありませんでした。
取材が終わって、駅までのタクシーを待ってた間(何でかよ、一時間!)暇 なのでラウンジでブラブラしていたら、超有名選手のキャディーをつとめてい る黒人のお兄さんと相撲中継について語り合う羽目になった。相撲中継が終わ ってゴルフの話になった時、彼がため息をつきながら言った。「ゴルフは、知 性と精神力と体力と持久力がバランスがとれていて、しかも最高に強靱でなく ては生き残れない」ひえ〜、4つも最高レベルなわけ!「彼らはプロなのだ。 だから常に最高の状態で戦うのだ」とも言っていた。
ふと思った。子供時代。自分の親は勿論、友達の親も心配のあまりに超うる さかった。厳しいというよりも、本当に心配してつい小言が出るのだろう。理 解できないと思っていたが、最近少しだけだがやっと理解ができる。子供に茨 の道に歩ませたくない。傷つかせたくない。目標をもって生きていく、邁進し ていくことの険しさを考えたら、ライオンのように谷底には突き落とせない。 過保護か、私。
だから彼もすごいが、親もすごい。そして彼の瞳は今や谷底に挑んでいる。 彼は何度も「伊良部の皆さんの支えは大きい」と語っていた。才能は勿論必要 だろうが、精神力の部分では伊良部は確実に彼を支えている。そんな長身の子 ライオンの活躍を陰ながら、いや表に立ってでも祈りたい。
ミャークフツ講座 複数形 編
松谷初美
宮古の人が話す言葉の主語は、複数形が多い。
例えば、一人称でも良いと思える場合でも、よく複数形で話をする。「ばん たが おじい(私達のおじい)」「ばんたが やー(私達の家)」「俺ら(俺 たち)が子どもだったとき・・」などなど。これは別に「私の」でもかまわな のだが、ばんたぁ(私達は)「ばんたが」なのである。このくま・かまでも 「ばんたが」は、よーくでている。まずがーてぃ とぅみみーるよー(ためし に探してごらん)ほんとうーだよ。下地勇氏のデビュー曲「我達が生まり島」 も、まさにそうさね。
また「うちなんか(私たち)は、映画にいくべき(つもり)だよ」や、「あ んたなんか(あなた達)は、何を考えているか。まず」など、「達」の意味の 「〜なんか」もよーく使う。
小さい頃から、いつも集団で遊び、家族の人数も やまかさ(たくさん)で、 共同体の中の自分という位置付けが無意識にあるから、個人ではなく、仲間と しての「達」が前にでるのかもしれないね。
気が付かないうちに あんたなんかも たくさん使っているはずよ。
図書支援終了のおしらせ 〜たくさんの“ホン”の気持ちをありがとう〜
松谷初美
台風14号の被害を受けた宮古の小学校に「図書支援」をしよう!ということ で去る9月26日より呼びかけをしてまいりましたが、おかげさまでたくさん の図書が集まりました。
最終的な集計結果はまだこれからですが、現在1万数千冊の本と70万円以 上もの図書券や支援金が宮古教育事務所に寄せられているとのことです。今後、 集まった本は各小学校に配布される予定です。
宮古教育事務所では、今回をもって図書の受付を終了されるとのことですの で、私達の呼びかけも終了させていただきます。
私達の呼びかけに快く応じていただいた方々から「家にある本を少しだけど 送ったよ」、「子どもの学校のお母さんたちに呼びかけて集めて送りました」 「職場の人が寄せてくれました」など多くの「送りました」という書き込みや 連絡をいただきました。そのたびに、皆さんの温かい、宮古の子供達を思いや る気持ちがうれしくて、私たちも感謝の気持ちでいっぱいになりました。教育 事務所の方もみなさんのたくさんの善意にとても感激されていました。
最終的な結果がまとまりましたら改めてご報告させていただきます。ひとま ず、図書受付の終了をお知らせするとともに、みなさんの優しくて暖かい気持 ちと行動に対し心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
<図書支援し隊>
・船底直敬(支援提案者)
・「くま・かま」(代表:松谷初美)
・「読めば宮古」(代表:宮国優子) [2003年11月26日]
編集後記
松谷初美
ぴしーぴし(寒ーく)なり、パソコンに向う てぃまい ぱき゜まい(手も 足も)くぱりて(固まって)います。宮古では、ぶぎ(キビ)のバラン(穂) が出ている ずぶんぱずやー(頃だろうなー)。
あんな(母)の あんな またその あんなと続く、子へと繋がれてきたみ ゃーくふつ。ひさぼうさんにも脈々と繋がっているのを感じますねぇ。あー 今にも切れそうな あんな(母)としての私のみゃーくふつ。のうがーすぅで ぃがら!(どうするべきか!)
手登根渉さん。宮古からも大舞台で活躍する人たちが増えてきていますねぇ。 まーんてぃ ぷからすむぬ(本当にうれしいことです)。今後、子ライオンが 大人のライオンへと成長した時、また優子さんの いでゃあい(出会い)があ ることでしょう。期待しています。
「お店紹介」の取材は、お店の歴史や経営者の生き方、来し方が聞けたり、 その人となりに触れることができるのでとても楽しい。その中から宮古の歴史 も垣間見ることができるんじゃないかなーと思っている。大きな出来事だけで なない、小さな歴史、そんなことが伝えられたらと思う。しかし、いかんせん 私は宮古を離れて住んでいるので、この夏に行った取材が終わってしまった。 また、次回宮古に帰るまで「お店紹介」は、やすまっとー(休みますね)。関 東にある宮古関係の方の「お店紹介」も良いかなーと、考えたりもしているの ですが・・・。のーしーすぅでぃがらやー(どういう風にしようかねー)。
来月に「お年玉」特集を企画しています。まだまだ募集中です。締め切りは 12月20日。みなさんからの投稿、まちうんどー(待ってますよー)。
感冒ぬぅどぅ 流行ぃうーんぎなり(風が流行っているようです)。無理ゆ っすなよー(しないでねー)。あつかー また 12月18日ん やー。