うぷてぃだぬ あがりんみゃい(大太陽が上がってきて)、2004年が始 まりました。明けましておめでとうございます! かぎそうがっつう ん かいうらまず てぃどぅ うむいーうー(良い正月をお迎えのことと思い ます)。おせちもいいけど、メルマガまいいら(もね)。
今年もよろしく お願いします!
酒田川 どうかってぃ解説
マツカニ
明けましておめでとうございます。
年初めの 民謡どぅかってぃ(自分勝手)解説は、酒宴の席の献杯の時に唄 われてきたという「酒田川」を取り上げます。
1さきだがぬ みずだき いでぃさざり うーがにゃあん イカヨウヌチュウラヘ(ハヤシ)
2すたからや ばきゃあがり ういからや むりゃすぅい イカヨウヌチュウラヘ
3ぬみばまい ぴならん ふみばまい ふぐまん イカヨウヌチュウラヘ
4ぴとぅぱだぬ かぎさや さきだがあぬ みずだき イカヨウヌチュウラヘ
5みゃあくとぅなぎ ばんたーや すまとぅなぎ ゆからでぃ イカヨウヌチュウラヘ
(訳)
1酒田川の 水と同じだけ 絶え間なく流れでるように
2下からは 湧き出でて 上からは盛り添えて
3飲んでも 減らない 汲んでも へこまない
4人としての美しさは 酒田川のみずのように
5宮古島があるかぎり 私たちは 島とともに豊かになりましょう
(解説)
酒田川(崎田川)は、沖縄製糖工場(下地町)のすぐそばにある川である。 酒田川の水のように 酒はたくさん用意してありますので 遠慮することな く、たくさん飲んで下さいという意味が込められているそうです。4、5番は オトーリの口上に使ってもいいような、めでたい感じがします。 曲調は宮古島の民謡のなかでは ちょっと変わった感じがしますが、 美し い旋律で人気のある唄です。
それではクマカマにつながる皆様が ゆかす゜とぅっすぅ んかいらいよう ん にがいゆうてぃ きゅうや くまがみ(よい年を迎えられますよう願いま して、今回はここまで)
二回もらったお年玉
かい
私達が子どもの頃は、旧正の方が盛大に行われていたように思う。本土復帰 を境に、新正もそれまでよりは祝うようになり、その比重は年毎に大きくなっ てきて、いつの間にか逆転したようだ。子ども心に不思議だったのは、復帰前 はほとんどの家に飾られていた国旗が、復帰とともにだんだん見られなくなっ たことだ。私はもうお正月に宮古に帰らなくなってしまったが、今でも国旗を 掲げている家はあるのだろうか。
さてお正月といえば、子どもは何といってもお年玉が楽しみで、いつもより 早く目がさめる。我が家ではまず おじいやあに挨拶にいくようにいわれてい たが、女の子が朝一番に ざあ(座)を踏むことは許されなかった。こんなと ころでも男尊女卑がまかり通っていたのだ。でもおじいがお年玉の額を男の子 も女の子も同じにしていたから、卑屈にならずにすんだ。
旧正と新正の過渡期を経験した私達が得したのは、お年玉を2回もらえたこ とかな。5セントとか10セントのお年玉が、500円札(確かあったとおぼ えているが)や1000円札になったが、こども心にもドルの価値の方が強か った。
当時私はソロバンを習っていたので、検定を受けに平良によくいった。1ド ル持てば、バスの往復賃、船の往復賃、検定料、お昼のそば代を払ってもおつ りがあった。復帰後、1000円で同じことは出来なかった。その位、お金の 価値は変わったと覚えている。
伊良部では、お正月にあう子どもにはたいていお年玉をあげる。きりがない から、大変だ。それで、学校でお年玉の額が500円と決められたことがあっ た。私もあげる立場になり、500円玉の持ち合わせがなく、1000円だし たら、500円のお釣りがかえってきたことがある。何だか私もお年玉をもら ったようでうれしかった。
お年玉今昔
松谷初美
やらびぱだぬ(子どもの頃の)正月は、のーしーあいじゃあまい(なんと言 っても)お年玉が楽しみだったさー。にゅーだる(寝るのが大好き)の私でも 正月の朝は、はやーくなぁ(早く)目が覚めていた。空気も新鮮で、新しい年 が始まったことを肌で感じることができた。んなまとぅ のうぬが 違いうー がら(今と何が違ったんだろう)。
すぅとぅむてぃ しゃーかん うきつかー(朝早く起きると)、床の間には、 二段重ねの重箱の中に米が入れられ、その真ん中には炭が立てられていた。そ してその横には大きな鏡餅。またその近くには、盃で形どった塩が盛られ、牛 の角がおいてあった。ばんたがやーぬ(我が家で)ゆうむつ角(福をもたらす 角)として大事にされているものだ。朝一番の男性客が塩をなめ、牛の角でお 酒を飲む。ういがどぅ ばんたがやーぬ そうがつぱずみ(それが我が家の正 月の始まりだ)。これは今でも変わらず行われている。
午後になると うとぅざ(親戚)、とぅなずぬぴとぅ(お隣りさん)がやっ てくる。家の中は、たちまち賑やかになり、あっちのおばさん、こっちのおじ さんからお年玉がもらえる。ばんたがやーんな(我が家では)親からお年玉を もらうことも、月に決まったこづかいがあるわけでもなかったから、親戚のお じさん、おばさんからもらうお年玉は、とっても貴重だったさ。それで買うの は、毬やお菓子や漫画本といったものだった。特に毬は、女の子にとって正月 にはなくてはならないものだった。あの木綿の網の中に入った真新しい毬の感 触は、んなまぎーまい ばっしらいん(今までも忘れられない)。大きいのが 欲しくて、お年玉はたいて買ったっけ。
ばんたが(うちの)母ちゃんは12月になると、お年玉のための小銭や紙幣 を集めていた。みゅうず(甥、姪)まい、やまかさきす(たくさん来るし)、 近所の やらびたーまい(子ども達)もやまかさきす。いくらあっても足りな かったと思う。ときどき、初美、うわが(あんたの)お年玉を からし(貸し て)と言われたりした。
母ちゃんは、お年玉の額を年齢で決めていたようだ。○○は、小学生になっ たねーとか、あがい、もう○○は中学生さーと、ひとりひとりを考えながら袋 に入れていた。裕福ではないけれど、こうやって毎年子ども達にお年玉を渡せ ることが母の喜びでもあったようだ。
あすぅが(でも)、このようにお年玉をあげるようになったのは、つい40〜 50年前からのようである。その前までは、えんぴつを1本とか、帳面を1冊と かをあげていたさーと母ちゃんは話していた。
今は遠く離れている んまが(孫)にもお年玉を送ってくる。「えんぴつで も帳面でも買いなさいねー」と言って。その孫は、お年玉を むちー(持って) ゲームソフトを買いにと とびゃがりて(飛び出て)行った。
復帰前のお年玉
神童
ソーガツ(正月)だ。シンソーガツ(新正月)とキュウソーガツ(旧正月) がある。
昔の正月は家々の門に日の丸の旗を掲げて晴れがましい気分になった。なん で、みんな日の丸の旗を掲げていたんだろう。戦争に負けて沖縄がアメリカに 差しだされたから、抗議の意味を込めて日の丸を掲げたんだろうか。最近はあ まりというか、全然見かけない。日の丸の旗を売っていた旗やさんのお店は大 丈夫だろうか。復帰前は、学校の教師の先導で「おきいなわをかえせーー お きなわをかえせー」と歌わされて学校を巡るデモ行進の送り迎えを日の丸の小 旗をふりながらやっていたんだけどなー。
歳も押し迫ってくると押入から日の丸用具一式を引っ張り出して、それはそ れは大騒ぎだった。毎年決まって日の丸の旗竿の先につける直径7.5cmく らいの金の玉が無いからだ。家族総出で金の玉探し。あまり笑えない光景だ。
遊びは凧揚げ、独楽回し。女の子は正月の何が楽しかったのだろうか。大人 の男は、てんで勝手に親戚、同級生の家を梯子して大酒をかっくらい、ご婦人 方はその男性陣のもてなしに明け暮れる。女性側からすると、正月なんてと思 っていたのかも知れない。
肝心のガキ連中は何をしたかというと、各々、自宅からなにがしかの食い物 を持ち寄って、花札やトランプで馬鹿騒ぎをして、酒が飲めないので罰ゲーム で水を溺れそうになるくらい飲むのだった。家に帰る頃はミズバタ(水腹)が だーぶだーぶと揺れて、かなり苦しかったのを思い出す。
当時のお年玉は、親戚中からかき集めても1ドルに足らず1セント玉や5セ ント玉を手に、イッセンマッチャー(1¢お店屋=駄菓子屋)に飛んでいって 甘納豆だのあめ玉のくじ引きをやっていたな。あめ玉のくじは木綿糸の先にお どろおどろしい色彩の円錐のあめ玉が付いていて、木綿糸を引くとその糸に付 いているあめ玉が当たるという仕組みだった。マッチャーのオバアは汚い奴で 大きなあめ玉を引こうものなら「ウリャーアラン ウリャーアラン(それじゃ ない、それじゃない)」と木綿糸の束を大人の力で握りしめて子どもの邪魔を していた。
オバアもイッセンマッチャーも今はない。厳密にはオバアは亡くなって家は 道路拡幅で取り壊された。
お便りコーナー
けん坊にぃにぃより
初美ー元気ャアシーウズ?(元気にしているか?)
バーヤ、御陰ンドゥ、ヤットゥガマ、家ーンカイ戻ズタズ。23日ン。タン ディガータンディ。ウムヤスムヌ。(私はおかげさまでやっとのこと、家に戻 りました。23日に。どうもありがとう。安心したさー)
ウプカジヌ吹キッティカラ、バンタガ犬ヌ、フタカラ死ニニャーンサイガー。 カプギヌ犬(ゴールデンレトリバー)ヤターズスガ。アタラカ。ピトゥカラー 老衰ヤシー死ニニャーンスガ、ンナピトゥカラー、木ン首ユマキ窒息。ツンダ ラーサ。(台風が吹いてから、私達の犬は二匹死んでしまったさー。大きな犬 (ゴールデンロトリバー)だったけど。残念だ。一匹は老衰で死んでしまった が、もう一匹は木に首輪を巻いて窒息してしまったよ。かわいそうに。)
アスガヤー初美、他ヌ2匹ヌ雌犬(ダックスフント)ヌヤ、3匹ヅツ子オ産 シニャーンサイガー。マタ、ヤッカイナムヌ。親マイ数ツカーゼーンブシー11 匹。バーヤーノーバシーウイタンカイ餌オフィーッチャー。ウイトーミバカズ マイダイズ大仕事(オオスグゥトゥ)。アスガマタ、カワイイガマ。 (でもね初美、他の2匹の雌犬(ダックスフント)がね、3匹づつ子どもを産 んでしまったんだよ。またやっかいだ。親も数えると全部で11匹だよ。私はど うやってそれらに餌をあげたらいいか。それらの面倒を見るのも大変な大仕事 だよ。でもね、かわいくもあるんだ)
アンチーウタズ時ンドゥ、バンタガオ父マイ逝ズ。バヌンカイヤ、今年サピ ンナギ年ドゥアタズ。(そんな時に私達の父は逝ってしまったよ。私達にとっ ては今年は大変な年でした。)
アスガヤ初美。クイガドゥ人生。ガンバラヤー。 (でもねー初美、これが人生。頑張ろうねー。)
※けん坊にぃにぃ、台風14号で被害を受けた家の修理が終ったんですねー。 まーんてぃ うむやすむぬさいがー。辛いことがあっても前向きに生きる けん坊にぃにぃの姿に心打たれました。今年は良い年となりますように。
編集後記
松谷初美
くぅとぅすまい(今年も)宮古民謡で始まりました。音がないのが残念です が、三線の音色も想像しながら読みふぃーさまちよー。「みゃあくとぅなぎ ばんたーや すまとぅなぎ ゆからでぃ」とは、上等あーぐやぁ(いい歌です ねー)。まーんてぃ いつがみまい(いつまでも)豊かな島であってほしいで すね。
お年玉特集では、偶然に三人とも1960年生まれの ぶーりゃ(同級生)が集 まりました。小学6年生の時に本土復帰を向かえた私達の世代は、復帰前の暮 らしもよく覚えていて、むしろその頃のほうが印象深く残っているのかも。
くとぅすっさ のーしぬとぅすんどぅ なずがらやー(今年はどんな年にな なるでしょう)。くま・かまでは、今年も日々の小さな出来事、自分の足元の こと、自分たちを育ててくれた島のことなどを、自分自分の言葉で伝えていき たいと考えています。今年もどうぞよろしくお願いします。
さて、今年も新しく、くま・かまライターを引き受けてくださったお二人を 紹介しましょうねー。すでにこれまでに投稿されていたり、ホームページの掲 示板ではお馴染みだったりの二人です。
〔かい〕さん 1960年 伊良部町佐和田出身 那覇市在住
〔クイチャーマン〕さん 1948年 下地町与那覇出身 浦添市在住
お二人とも宮古を離れていますが、宮古をこよなく愛し活動している方たち です。ご期待くださいね。〔かい〕さんは、これまで二回投稿されていますが、 実は私の方で名前を間違えて一度〔そら〕さんで掲載してしまいました。はぁ ー、ホントに申し訳ない。まつがいどー。(ごめんなさいねー)
今回、ミャークフツ講座はお休みしました。次回は1月15日の予定です。 あつかー またいら。