こんにちは〜。
イチョウの葉も色づいて、秋が深まってきた東京です。そちらは、いかがですかー?
今回も、個性あふれるライターたちのぱなす(話)お届けでーす。
自分が何ができるかねーと考えてみた
宮国優子(平良下里出身)
数日前、宮古に帰省しました。
いつもドタバタなので、今回も会いたい人にも会えずじまいでした。どうしたらこの大騒ぎが落ち着く事やら。やっぱり宮古はゆっくり1ヶ月は必要ですね、ほんと。
し、しかし、私は宮古だけではなく、東京でも同じようにバタバタしています。これは性格の問題かもしれません。子どもの頃は うすんきゃー(内気)だと思っていたのですが、とんだ ぼーちらんまり(born to bewild)です。
特に、今回は、宮古に行くギリギリまでも宮古の人に囲まれていました。くま・かまでも何度も書いていますが「今時の宮古の若者たちはすごい!」私は東京に住んでいるので、出会うのは限られた人達。東京在の宮古出身者か宮古から授賞式や大会で上京する高校生が多く、才能あるゆ、と圧倒される。でも、宮古に帰ったら、才能というか、誰もが個性的すぎて、うむっしすぎて、圧倒される前におぼれているけどさ。
東京の郷友会で出会う東京在の宮古の先輩たちもやはり「たや!」と思う事も多くて、宮古の若者とのラインがうまくつながればいいなぁと、ここ数年思っていました。で、いろいろ知り合いに話してみると「器を作ればいいさぁ」とのこと。紆余曲折ありつつ、ぬちー(ゆっくり)といろいろ始めてみる事にした。
で、ある財団に助成金を申請してみた。去年は落ちたけど、今年もチャレンジ。倍率は20倍です。でも、やってみるだけ価値はある、と数人の若手と10日間くらい頭をつきあわせてやってみた。
無事、渋谷のカフェで最終ミーティングを迎えて、ほっとしたところに、出会いが。
その渋谷のカフェは、国内カフェ業界では最大手が新しく手がけた趣向の変わったカフェです。新里先生の「宮古方言教室」の授業場所のすぐ近くでもある。ちなみに渋谷のカフェは何軒あるかよ、とつっこみますが、大小合わせたら、駅前だけでも軽く200軒はあるはずよ。
で、また話を戻しますが、打ち合わせもそろそろ終わろうか、と思っていたら、「個人的なことなんですけど」と店員さんから声をかけられた。「あがい、しまい、騒ぎすぎたはず」と思っていたら「パンーントゥとか、オトーリとか、聞こえてたんですけど」と店員さんは続ける。「え??」混乱して、頭がだんだん ぐどぅんになっていく私。「もしかして宮古の人ですか?」なんと彼も宮古人なのでありました。
実は、私がその店に入ったとき、あまりにもナイスな接客だったので、「いやー宮古人みたいにざっくばらんだけど気持ちの伝わる接客をする人もいるんだなぁ」と、ひそかに感動していた、その子だったのです。膝をついてパソコンの電源をさがしてくれたりしてくれた。だいず、偶然。だいず、感動でした。「おごえ!!!!」と叫びそうになった・・・。
宮古の人は3人以上集まると、宮古の人を呼び寄せる能力があるはず。んーだはず。文殊の知恵より強烈か。
いろいろ話を聞いてみるとこの場にいる4人は実家が1キロ圏内でした。だいず・・・。15分も歩けば、全員の実家を回れるくらいです。東京って大都会じゃなかったっけ・・・と、つぶやいた私です。その23歳のK君は都内の大学卒業後、その企業で働いているとのこと。いやーうれしかったさー。
帰りのレジで、今日は何をしてたのか聞かれて「東京からも出来る宮古の応援はできないなぁと考えていたよ」と話すと「だいず面白そう。今度は僕も!」と言ってくれた。このノリが宮古なんだよなぁ。たんでぃがーたんでぃ。
いつものことですが、新聞社の仕事をしていて、感じるのは世代の隔たり。だいずもったいないと思う。私は郷友会にも顔を出せば、宮古の若手にも会える。その立場で、いろんな人をつなげることはできないかなぁと思っていた。それは、くま・かまの主宰者でもある松谷さんや執筆者の皆さんがおつきあいの中から自然に教えてくれた。たらーん私は、たまにそんな当たり前のことを忘れそうになる。
人が人と幸せに「繋がる」こと、「繋げる」こと。私にできることを少しでもやって行きたいと思う。そこには宮古の人だけではないし、垣根もあってはならんさーとも思う。
でも、思っているだけではいかんさーと思って、縁のあったブログの会社で一ヶ月ほど前からブログを始めています。宣伝しとおくねー。「宮国優子の寝ても覚めても宮古島!!」http://miyako3892.ti-da.net/
なんの役に立つかはわからんけど、何もしないより、いいさーと思って、毎日毎日、意味不明な宮古を発信しています。やっていたら見えてくる事もあるはず(このいい加減さが宮古の人です)
あがい、書きたい事はまだまだあるけど、今日はここまで。だいず名残惜しいです。じゃ、またねー、あとでねー。
自転車教習
大和の宮古人(城辺・長南出身)
私が自転車に乗りを始めたのは小学校4、5年生の頃だと思う。どんな経緯で自転車に乗ろうと思ったのか、その以前の記憶がないので定かではないが。
子供用の自転車を買ってもらう事はおろか、ママチャリも無かったので大人用のゴッツイもので練習した。小さい私はハンドルより下に頭があり何しろ重かった。
ばんたが やーんな(わたしの家には)自転車が有ったかどうかは うぶいや うらんすが(覚えていないが)まさか、ぴとぅぬ やーぬ(ひとの家の)自転車で練習したとも思えないので、ありどぅ うーたーてぃうむいうすが(あったのではないかと思うが)・・・。(中学3年生で友達との卒業サイクリングに隣のオジイから借りて参加したから ひょっとして・・・。)
家が城辺線の近くにあるので うまぬどぅ(そこが)練習場だった。自家用車など殆ど無い時代、1時間に一本のバスとヌバリグスと保良の米軍基地を往復する米兵のジープしかない。
やー(家)から道路まではフラフラしながら押していく。ぱずうみゃー(最初は)母が後を支えてくれた。
まず右足でペダルを踏みながら左足は地面を蹴って助走する、ある程度自転車が走り出したらペダルの上部に左足を掛けて乗り込む。サドルに座ると上がってきたペダルにしか足は届かない。右足でべダルを踏み込んだ後、左のペダルが上がるのをまって左足で踏む、を繰り返す。ペダル踏むときは足元を確認するので米搗きバッタのように頭を上げたり下げたり忙しかった。
母が後から押してくれるのでペダルも軽く快適に進む。自分ではペダルを踏んでいるつもりで得意になっていた。
ある日同じように練習していた。
不安なのでいつも必ず「押さえているか?」と母に聞いた。その度に「うさいどぅうーゆ(押さえているよ)」と返事が返る。
その日はなぜか自転車が重く感じて進みが悪かった。そして踏んでいるうちに止まりそうになった。「かあちゃん、んなぴ うしゆ(もっと押して)」と云ったが返事がなかった。何気なく振り返った。アガンニャ、かあちゃんがどぅ みーん(母がいない)。んにゃ だいずさいが!!(大変だ!!)
一人で乗っていることに気が付いた後はパニックで声も出ない。私の家の前の県道は道路に沿って用水路があった。雨が降らない限り水は流れていなかった。【田圃に水を引くための人工の水路だったそうで、ちなみに暗渠(あんきょ)と云うそうですが私はアンキョウと発音し、キョウを橋と勘違いして小さい橋をアンキョウと云うのだと思い込んでいました。辞書には暗渠とは覆いをしたり地下に設けて、外からは見えないようになっている水路となっています。ふたのない水路は明渠(めいきょ)と云のだそうで、家の前はフタがなかったので明渠なんでしょうね。現在は間違いなく暗渠です。上は歩道になっています】
ハイ〜皆さんの想像通りです。真っ逆さまで〜す。
たいがいの人は転びそうになると、どうにか回避しようとする。でも私は違います。ハンドルを握ったまま固まります。落下するまでの数秒間に走馬灯のようにいろいろな事がよぎりました。
そして「じょうぶんゆ(いいさ)、あにぎなうてぃる(そのまま落ちて)」と思いながら一直線に突っ込んで行きました。
ショックと驚きで呆然としながらも立ち上がっていた様に思う。母は一応飛んで来た、が、怪我が無いと知るや路上から見下ろしてゲラゲラ笑っていた。
「のーてぃが かあちゃんな うさいふぃんが(どうして母ちゃんは押さえてくれないの)」と半泣きで訴えた。
呑気な母ちゃんは「あんちーすうだか、うわいんな ぬぅーらいん(そうでもしなければあんたには乗れない)」ときた。(まーその通りではあった)
痛い思いもしたが、母との楽しい時間でもあった。今思うと一人で乗る事よりも、母を独占できる事が嬉しくて毎日練習したのだろう。
不器用な割には骨折もせず擦過傷だけで済んだのは幸いだったが、その後は母といえども信用できず、一人で練習し、県道には二度と出なかった。やー(家)から城辺線までのわずかな私道を往復し何度もキビ畑や芋畑にぶりんきていた(転んでいた)
落下した事は昨日の事の様に覚えているが、かーから いでぃきすたーくとぅや(川から出てきた事や)颯爽と(?)ぬうらいたーくとぅ うぶいや うらんばどぅ んぞーさーてぃ うむいゆう(乗れた事が記憶に無いので残念に思っている)
苦労して練習した自転車ではあるが最近は殆ど乗らない。健康の為に歩く事が多くなったことと、駐輪場所に困るからだ。たまに乗って買い物に行ってもスーパーに置いたままで歩いて帰り、2〜3日は気が付かない。
兄を想って書いた詩(14)
ワタリマリ(上野宮国出身)
この詩は、脳性マヒの あざ(兄)を想って書いたものです。
ぼくは菊が好き ぼくは赤紫色の小さな小菊が好き 春の桜よりも 夏のバラよりも 冬の椿よりも 秋をしらせてくれる菊の花が好き ぼくの庭に咲く菊は赤紫 庭の芝生の片隅に たますだれの白に囲まれて 遠慮気に咲いている 一年がめぐり 秋を待ちつづけ そっと咲く 去年と同じ色を付けて 去年と同じに素朴に ぼくの秋の一日を楽しませてくれる 運動会も学芸会も何もないぼくの秋は 庭の片隅のこの菊たちが 気分を変えてくれる 大輪の菊のように 愛情いっぱい育てられたわけではないけれど 皆が愛でるほどの器量もないけれど 真っ白や真っ黄色でもないけれど 自分の色に咲く小輪の菊の花 秋にやってくるぼくの友達 子らが遊ぶ 鬼ごっこ 缶けり かくれんぼ 走り回る子らに 踏まれるのが当たり前のように ふまりるばん のうちゆまい あすっさん (踏まれても 何も言わない) ポキッと折れても何も言わない 辛抱強く耐える 耐えたところから ほらごらん 芽が出てきた 根が強いんだ ぼくを喜ばせる枯れない菊 枯れてくれるな菊の花 雨がふれば雨にうたれ 風の時は風にゆられ 誇示せず 欲張らず 何もせず それなりの色とそれなりの大きさと それなりのかわいらしさと 本当に自分をよく知っている なんだかぼくに似ているような気もする この匂いもいい クチナシやサザンカやキンモクセイような 香り豊かな匂いは 放つことはできないけれど 鼻を近づけると ほらなんだか仏の匂い その匂いにぼくは安らかになり 一人ぼっちも忘れる 天然のセラピーだ 菊の花びらを集めて枕に入れ その匂いに包まれて寝よう ぼくはいい夢を見るだろう 歩いている夢 走っている夢 うたっている夢 仕事している夢 食べる夢 飲む夢 話す夢 人生バラ色になり 菊の花なんか見向きもしないぼく 花はすっかり枯れていた 目が覚めると妹が笑っている 気持ちよかった? ん・・・(そう) そろそろお昼時 うとうとしながらぼくは東の縁側で 半目開きに赤紫の小菊を見ている 人生菊色しい じょうとう (菊色で上等) そんなぼくを見た空のサシバも笑っている
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
下地勇さんのライブが14日に東京原宿であって行ってきました。ギタリスト下館直樹さんとのライブは、ふたーず(二人)だけとは思えないほど迫力があり、圧倒されました。アルバム「民衆の躍動」に入っている曲はもちろん、それ以外の曲もたくさん聴かせてくれ、歌に、演奏に、トークにとアッと言う間の2時間余。ばんたが勇さんは、まーんてぃ、ずみ!やー。心ほかほかになって帰ってきました。
宮古島市総合博物館では、宮古で生まれ、幼少期まで過ごしたという、漫画家下川凹天(しもかわへこてん)さんの企画展「宮古生まれの奇才漫画家・下川凹天」が行われているそうです。漫画家にそういう方がいることもまったく知らなかったので、その存在にびっくり。
「あんちー かんちー」http://akmiyako.ti-da.net/ では特集を組んで紹介していますよ。
宮古が つかふ(近く)だったらねー、絶対博物館に見に行くのになー。企画展は、12月6日までだそうです。機会がある方はぜひ!
さて、今回の くまかまぁ のーしが やたーがらやー?
優子さんの人と繋がるパワーは、ホントにすごいなーと思います。まさに磁石ですね。人を吸い寄せる力、ブログを見るとよ〜く分かりますよ。助成金の申請も通ってほしいですね!
大和の宮古人さんの話は、楽しいですね〜。当時(昭和30年代)の時代背景やシマの風景とともに、自転車の練習を一生懸命している姿がありありと浮かぶようでした。穴に ぶりんきた経験、ばんまいアリ!
ワタリマリの詩を読んでいると、ざわついていた心もシーンと波打ったように静寂になります。今からだいぶ前の んなまずぶん(この時季)にそのような光景があったんですね。
あなたの感想もぜひお聞かせくださいね〜。
次号は12月3日(木)発行の予定です。
くとすまい んにゃ ぴっちゃがまやー(今年もあと少しですね)ぱんたーぱんたの折、体には気をつけてくださいね〜。
あつかー、またや〜。