くまから・かまから vol. 191

  1. Home
  2. 未分類
  3. くまから・かまから vol. 191

 こんにちは〜。3月になりましたねー。
 春はつかふがま〜(近し)と思っていたら雪が降ったりの東京です。
 雨にも負けず、雪にもまけず(?)vol.191発行で〜す。

宮古島フィルムオフィス誕生(投稿)

シネマパニック宮古島 下地昌伸(平良出身)

 ついに2年越しで宮古島市にもフィルムコミッション(以下FC)が出来ることになりました。その名も宮古島フィルムオフィスは現時点では準備室ですが、ホームページもほぼ完成し、どんどんロケーションの画像のアップを行い、4月の正式スタートを目指して担当者の皆様が奮闘中です。
 
 ↓宮古島フィルムオフィス準備室ホームページ
  http://kagisuma.com/
 
 FCとは。詳しくはコチラで↓
 http://www.film-com.jp/about.html
 全国フィルムコミッション協議会HP
 
 2年前、シネマパニック宮古島で上映された「アコークロー」(岸本司監督)で沖縄フィルムオフィスが支援に関わったと言う記事を読み、シネマパニック宮古島でも、監督の岸本司さんと沖縄フィルムオフィスの又吉演さん、映画プロデューサーの高澤吉紀さんをお招きして上映とあわせ、トークイベントを開催したのですが、FCの存在自体を知ったのは、それからさかのぼること数年前に地元新聞への投稿記事を読んだのがきっかけでした。
 
 うろ覚えですが、FCと言う組織が世界的にもあり、日本にもいくつかできている。沖縄、宮古の温暖な気候条件を利用して映画の撮影隊を誘致することで観光の活性化になる。映画のスタジオも宮古島に作ってはどうか。と言うような内容だったように思います。
 
 同時期にこんなこともありました。宮古島で撮影していた映画「深呼吸の必要」は台風14号の影響受け、撮影スケジュールの変更を余儀なくされて、スタッフの方が、当時、私が勤めていたマティダ市民劇場に「打ち合わせをする会議室を探している」と訪れました。撮影に使うわけでもない、ただの会議室をです。
 
 「深呼吸の〜」へは、平良市商工観光課が丁寧に対応していたのですが、FCのない行政組織に、撮影隊への対応のノウハウやシステムが存在しないのは致し方の無いことで、また撮影隊にも遠慮があったのかもしれません。結果、スタッフが会議室を探すのに走り回ったということなのでしょう。結局、サトウキビ畑の撮影は鹿児島県で行われたようです。
 
 当時は映画作りって大変だ、位の認識しか有りませんでしたが、今から思うと、仮にあの映画が台風の影響も受けずに、仮にFCがあったとしたら宮古島だけでの撮影で、その作品の質も上がり、全国的なヒットへとつながったのかもしれません。もしもですが、そうなったら、宮古島への影響は格段に違ったのかもしれません。もしかしたらです。
 
 そういった、いくつかの点がつながりFCの必要性を感じ、映画館が若干でしゃばってトークイベントの開催いたしました。トークイベント自体は少ない参加人数でしたが、実際に、FCを運営する側、利用する側から貴重な話を伺い、私以上にその必要性を感じていた行政の方も含め参加されていたので、これで機運は高まった、次年度予算は大丈夫。と思っていたのですが、財政難の中、そう簡単にはいかずに2年が過ぎました。
 
 が、昨年、10月に観光協会青年部で、勉強会を再度、沖縄フィルムオフィスの又吉さんと、又吉さんのアイディアで映画プロデューサーの仙頭武則さんをお招きして行いました。その勉強会でさらに多くの方がFCの必要性を感じ、準備を進めていた行政への後押しにもなったのでしょう、2年越しで補正予算がつき、今回、HPの立ち上げとなりました。
 
 宮古島にFCができるメリットは、直接的にはロケ隊の宿泊・移動・食事等の直接的経済効果とその撮影物が紹介されることの間接的経済効果などが上げられます。宮古島の場合、海を中心としたロケーションなので、観光資源としてのロケ地の保全なども積極的に行わなければならないのではと思います。景観を保全する、これもメリットです。
 
 エコアイランド・スポーツアイランド構想ともリンクしながら宮古島がアピールされると考えています。また、映像文化に関心のある若い(なくても)方々の刺激にも一役買うことを期待してます。
 
 多くの猥雑な映像がケイタイでもインターネットでも手に入るこの時代です。映像製作者たちが真剣に作品と向き合っている姿を子どもたちが学ぶことへもつながるFCになって欲しい。
 
 映画館的にはもしも宮古島での撮影がされた映画の上映が行われればエンドロールに宮古島の皆さんの名前や企業の名前が流れてかっこいいですよ、きっと。
 
 日本は海外からの観光客の増加を目指していますが、海外からの撮影隊の誘致も行っていく準備を進めているようです。数年後に完成する伊良部大橋を007のボンドカーが走り抜けていくというシーンをスクリーンで観る日が来るかもしれません。けっこう、本気で思っていますが、どうでしょう。
 
 さらに、宮古島発信の映画も出来るのかもしれません。「おくりびと」は日本の地方が舞台です。しかも現代です。庄内地方で撮られたこの映画にはもちろんFCも深く関わっています。
 
 いま沖縄県は、国内のロケ地として注目を集めています。本土が冬の時期に、夏の日差しを撮影できるのです。ただ来るのを待っていたのでは有りません。その需要が生まれている陰には沖縄フィルムオフィスの尽力があるのです。沖縄フィルムオフィスは県全体をカバーしています。ですが、宮古島の関係する作品は数えるほどしかありません。一方、石垣ではフィルムコミッションが数年前から活動を行っておりました。一概には言えませんがその差は有るように思えます。
 
 FCから情報を地域へ提供して行くことも重要になるでしょう。その情報を観光資源につなげていく事もFCの役割です。タクシーの運転手さんがサトウキビ畑の真ん中で「あのシーンはここで撮影されました」と私たちにとってはなんでもない場所を観光スポットに出来るのです。ロケ地マップと言うヤツですね。
 
 宮古島には物語や風景があふれています。例えば、神童さんのスリリングな体験も宮古島でなければ生まれない物語です。宮古テレビの冴子おばぁのお話もです。マンガ、宮古スピリッツのネタ、高校生男「これは恋かね」高校生女「あいだら」もです。宮古島、全てです。
 
 宮古島に関わる人たちで作る映画が生まれてくる日も近いかもしれません。カンヌかアメリカアカデミー賞のレッドカーペットをみんなで歩きましょう!さあ手に手をとって!!・・・
 
 「あがいたんで、うぷふつしょうしん(ホラ吹き昌伸)」(子どもの頃そう呼ばれてました)の やなふし(悪癖)が出てきました。もうすぐ終わります。でも、決して不可能なことではないと思うのは私の勝手です。
 
 以前、宮古島市博物館で40数年前の宮古島の風景を写した映像を見ました。私が生まれた年にとられたものでした。当時の先輩方の気概が感じられました。
 
 しかし映像って博物館のポジションですかね。館長の心意気で成立した上映会だったように思いますが、ホントは図書館の役割なんじゃない??あんな貴重なフィルムの保存は図書館機能の中でやるべきなのではと思いました。良い作品が宮古島から生まれるには資料の保存も必要になってきますよね。フィルムも保存しなきゃデスよ。図書館で!図書館建設、白紙撤回のニュース見ましたが、いままで何で人集めて会議重ねてきたの?とても疑問・・・。すこし横道に入りました。軌道修正。
 
 勉強会ではプロデューサーの仙頭さんがおっしゃいました。「映画は百年残る。映画の中に宮古島の記録を残すことも出来るんですよ」「宮古島を守るための組織として存在してください」とおっしゃいました。そして「結局そこに撮りたい物語があるかどうかですよ」とおっしゃっていました。みなさん、ありありですよね。どうします?
 
 宮古島フィルムオフィスがいよいよスタートです。宮古島で撮影をとお考えの皆様はどうかご利用下さい。また島外にお住まいの宮古ひとは、お知り合いの映像関係者に宮古島にもフィルムコミッション「宮古島フィルムオフィス」が出来たので、どんどんご利用いただくようお声かけください。
 
 まずはご友人やお知り合いから攻めていただくことが島外のみなさんの主なお仕事です!おもてなしは島班が担当します!分業制とします!どうぞよろしく!

釣り道具

神童(平良市島尻出身)

 復帰前の島尻集落は、船着き場のあるビダを東西に分かつように海底の地形が一変する。
 
 西方狩俣方面にかけては、飽くまでも遠浅でバタラズ入り江から流出した泥とも砂ともつかぬ黒い土砂が海岸を覆い、岸から500m辺りで白い砂に変わる。
 
 片や東方横綱千代の富士!違う違う。東方南静園方面にかけては潮の流れも速く、泥の全く無い海底が広がる。海底は珊瑚珊瑚珊瑚。この海岸はリーフエッジが近く、大潮の干潮時には膝辺りの水深になるので、リーフエッジまで歩いて釣りを行う。
 
 ここで必要なのは時計と釣り道具だ。時計がないと命の危険が危ない。釣りに夢中になる余り、時間を忘れて帰り道は深いよどみで釣り道具はもちろん、吊り上げた魚も捨てて必死こいて岸まで泳がなければならない。特に島尻元島付近の流れは速く溺れて死にかけた友達も多い。
 
 釣りは夏場に行う。冬場はバタラズの入り江で釣りをする。夏場の釣りは楽しい。釣りに先がけて道具を製作する。釣り場のリーフエッジまで歩く間にニゴー(シャコ貝)をゲットするためシャコ貝専用の道具を作らなければならない。
 
 まず、やーふきやー(住宅の新築現場)の現場に赴き三分筋の切れっ端を調達する。長さは30cmほど。家に鉄筋を持ち帰りまず火を起こす。これは鉄筋を焼いて柔らかくするための作業である。
 
 燃え盛る薪に鉄筋をくべて先端が真っ赤になったら先っちょをハンマーでひたすら叩く。鉄筋の片方の先端は銀杏の葉のように扇状に叩き延ばし、もう片方は鋭角に んーぷりゃ(芋を掘る道具)状に仕上げる。
 
 この道具で光を浴びてだらしなく口を開けているシャコ貝の貝柱を扇状に広げた刃でスパッと切り、蓋を閉じることが出来なくなったシャコ貝をもう片方の んーぷりゃで岩礁よりほじくり出す。シャコ貝を開いて貝柱の甘い部分を食用とし、肝などのさして美味くない部分を餌として魚を釣る。
 
 実はシャコ貝採りは、さして難しい作業でもなく、大して面白いこともない。普通だ。
 
 難儀なのは釣り竿。こいつは時間がかかる。現在のようなカーボンロッドの釣り竿は島尻に存在しないので、釣り竿と言えば浦島太郎が肩に担いでいる竹製の釣り竿となる。
 
 絵本の浦島太郎の釣り竿は絵本の紙面の関係上、せいぜい人間の背丈より長いくらい。でも、現実にそんな釣り竿は屁ほども役に立たない。そんな長さで釣れるわけがないさあね。
 
 実際に使用する釣り竿は約6mくらいだ。平良の狩俣釣り具で竹の釣り竿を買った場合、平良港付近の狩俣釣具店で1本300円の竹の釣り竿を購入し、役所前から八千代バスまで電線に引っ掛からないように注意しながら移動し、八千代バスでバスに乗り込む。
 
 もちろんバスに6mの釣り竿が持ち込めるはずもないので先に乗車した友達にバスの中から手を出して釣り竿を掴ませる。続いて乗り込み、釣り竿を掴み島尻までの30分間、釣り竿を掴み続ける。ちょっとした罰ゲームみたいな我慢比べだ。手首が んにゃとするまでだりる(限界点まで疲労困憊)
 
 金がない子供は、釣り竿を自分で調達しなければならない。島尻には南静園付近の「たきばだ」と養護学校付近の「ふかばだ」の2カ所に竹が自生している。現在でもね。
 
 ここの ばだに入り込んでなるったけ古い竹で すぅら(梢)の部分が折れていない竹を切り出す。若い竹は、やぱびるびる(柔らかくたおやかな様子)としていてすぐに折れるので使い物にならない。でも形は格好いいんだな。ここで調達する竹は去年若しくは一昨年ほどに成長した竹。葉の色も褪せて竹の胴も緑ではなく黄土色になった竹を探す。
 
 ばだで葉を切り落とし5本ほど持ち帰る。1本だけ必要なんだけど複数本持ち帰る。ちょっとした乱伐。自然破壊ね。・・・知ったこっちゃないけどね!
 
 持ち帰った竹を複数本まとめて砂浜に埋めて、砂の熱で竹の曲がりを矯正する。束にして埋めることで自然と直線に近い矯正になる。その後は直線に近く手になじみやすく重さのバランスの良い竿を選定し、更に蝋燭でやいてまだら模様にしながら更に矯正して釣り竿のできあがりとなる。

十六日祭

R(平良出身)

 北京市の国営中国中央テレビ新社屋の付属高層ビル火災報道はまだ記憶に新しい2月9日の出来事だ。出火原因は、元宵節の花火が考えられるとのニュースだった。
 
 元宵節(げんしょうせつ)とは、太陰暦(旧暦)の正月が終わる日で、旧暦の1月15日だとテレビは伝えた。ということは、中国での(この世、今生の)正月は1月15日まで続くのか。そして翌日の16日にあの世、後生の正月に繋がっていくんだ。
 
 私の頭の中で、長い間持ち続けていた「なんで十六日がグソーの正月だわけ?」という疑問が解消した瞬間だった。
 
 私が宮古島に住んでいた頃、父は四男で家に仏壇がなく、また、父方の先祖のお墓も那覇に移っていたせいか、我が家では十六日祭を祝う習慣がなかった。嫁いだ先も清明祭(シーミー)を祖先供養の行事として行う本島中南部だったため十六日祭はテレビや新聞のニュースの一つに過ぎなかった。
 
 父が生前準備した宮古のお墓に両親が入ったことにより、私も十六日祭を意識したのは4年前のことだ。「島外で暮らす人々も帰省し、親族一同で墓参りをし、お墓の前でご馳走を食べる習慣」と親戚の叔母さんから聞いて両親(のお墓)が寂しい思いをしないようにと姉たちと重箱料理を準備して宮古島の墓参りをしたのが初めての十六日祭となった。
 
 その日は暑かった。お墓を掃除した後、重箱を供え、線香をあげ、ウチカビ(紙銭)を焚いて両親を供養した。両親の初めての十六日祭ということで自分達が準備した物が足りているか心配になり、隣のお墓に集った皆さんが供えた物がとても気になった。
 
 夕方遅くまであちらこちらのお墓の前からは子どもの声が聞こえ、とても賑やかな様子が伝わって来た。まるでピクニックのようだと思ったものだ。
 
 翌年の十六日祭の日はとても寒かった。姉たちが用事で宮古に行けないということになり娘と二人での参加となった。雨も降り、ぴしーぴしで(寒くて寒くて)お墓の前で到底食事することはできなかった。近くのお墓では青年が、「北海道から帰って来たら北海道より寒い」と言いながら一人で濡れながら墓掃除をしていた。
 
 今年の十六日祭は、2月10日で、かぎ わーつきだった(とても天気がよかった)。今年は、宮古には行かず、沖縄本島南部の三重城で十六日祭を祝うこととなった。
 
 本島に住んでいて故郷に帰れない場合、この三重城に集うということだった。14歳年が離れた長女姉さんは、やらびぱだ(小さい頃)母に連れられて何度か来たことがあったようだ。その頃は小高い丘のように感じていたようだが、現在は階段を十段くらい登ったところにちょっとした広場があり、その先に海が広がっているというロケーションに位置する拝所である。
 
 お昼過ぎ、姉二人、義理の兄、甥、甥の嫁と私という6人で三重城から宮古島の方角へ向かってご馳走を並べ、てぃをかみた(手を合わせた)。平日なので子どもの姿は数える程しか見えないが、ひっきりなしに訪れる人がいる。4〜5人のグループが主流だが、夫婦(と思われた)や姉妹といった二人組、また重箱を両手に持ち、一人でやって来た腰の曲がったお婆ちゃんなどなど。りっぱなお供えセットを持ったユタ?と思われる人も何人か見かけられた。
 
 初めて参加した甥が隣に位置した久米島出身の女性に供える線香の数を聞いたところ「久米島は15本だけど宮古はどうかねー?」との返事。それに対し甥は、90本の線香に火を点けた。一同、爆笑。「線香一つには6本まとまっているから、15本は二つと半分だよ。間違ったことで覚えられるさー。来年は大丈夫だね。」とその女性との会話が進んだ。
 
 みんな後を絶たない訪問者へ場所を譲ることとし、ご馳走を食べる際には場所を移動している。私たちも下の方に場所を移し、草の上に敷物を広げ、サンサンと降り注ぐ太陽の下、ピクニックタイムと相成った。
 
 その昔、島では長男しか残れない時代があったという。この地は、島を出た人たちが故郷を偲んだ場所でもあるのだろうな。
 
 宮古で感じた十六日祭の独特な賑やかだがのんびり流れる時間を今年は離れていても感じることができた。
 
 十六日祭は、祖先からの繋がりを受け、また未来へ繋げていく営みを認識できる行事であると思う。

おしらせ

松谷初美(下地町高千穂出身)

「一粒の種」全国放送!

 2月6日にNHK沖縄放送局で放送された「ドキュメント沖縄『一粒の種』が、なんと今度は、全国放送されることになったそうです!!
 
 沖縄で放送後、菜の花のところにはもちろん、私のところにも「見たよ」「感動した」などの電話やメールなどが やまかさありました。して、今度は全国に「一粒の種」が蒔かれることになり、まーだぷからすむぬ〜。
 
 見たくても見れなかった方が多くいると思います。ぜひ、お見逃しなく!

日 時2009年3月17日(火)26:00〜
(=18日(水)午前2:00〜)
番 組NHK総合テレビ(全国放送)
ミッドナイトチャンネル 
ドキュメント沖縄「一粒の種〜遺言から咲いた命の歌〜」

お便りコーナー

 前号(vol.190)への感想・お便りを紹介します。

バードさん(平良出身東京在住)

■『兄を想って書いた詩』に感動

 くまから・かまからのスタッフの皆様
 
 いつも楽しく拝見しています。
 
 今回は、ワタリマリさんのお兄さんを想っての詩に深く感動し、久しぶりに感想メールを送りたくなりました。
 
 上京してから早20年。私も40歳を過ぎ、すっかり東京人になってしまいました。このところ、長男の中学受験・子供達の小学校・幼稚園の役員活動とバタバタと動いていましたが・・・。
 
 久しぶりに宮古ふつのメールマガジンを開き、ワタリマリさんの詩を読んだら、自分の子供の時(当時、不良の姉二人に振り回されている病弱な母、スロットマシンに明け暮れている父と家族はバラバラだった)が鮮明に思い出され、ワタリマリさんのお兄さんには比べ物になりませんが子供の頃に味わっていた孤独感や悲壮感・・・なんかがあふれ出し涙が止まらなくなってしまいました。
 
 お兄さんを想う妹さんの優しさと同じ家族の優しさをあの時の私も欲しくて一人でよく泣いていたっけ・・・。
 
 短大に進学するまでの宮古にいた期間の18年間。楽しい高校時代以外は孤独で、さみしくて、グレたくてもグレた姉二人で苦労している母をこれ以上悲しませてはだめだと自分に言い聞かせ親孝行な三女で通した自分でした。
 
 東京の人と結婚し、すっかり東京の生活になじみ、江戸っ子のお姑さんとの同居に悪戦苦闘しながらも東京での生活を楽しんでいる私ですが、ワタリマリさんの詩を読んでそして、宮古の高校生達の「宮古の為に何かしたい!」という想いを読んで宮古を忘れてはいけない!!!と目を覚ました私です。
 
 専業主婦で東京人になっている私だけど、こんな私でも宮古の為に何かできることがあったらぜひ!行動してみたいです。(・・・っていますぐ何ができるか全然わかりませんが)何か私でもできる事あたら誰か教えてください。
 
 だけど、とりあえず宮古の方言から思い出さないとね〜。もう一回くまからかまからをじっくり読んで宮古ふつ思い出すことから始めますね!(法政大学の宮古方言講座行った方が早いか??)
 
 ではでは、これからも楽しいメールマガジン作成頑張ってください!

編集後記

松谷初美(下地町高千穂出身)

 vol.187で「宮古島の図書館応援ブログ「島の図書館に行こう!」というお知らせをイケシロさんが書いてくださいましたが、平成25年開館をめざしていた新図書館建設が見直されることになったと3月2日付けの宮古毎日新聞に載っていました。ここに来て見直しとはびっくりですね。新図書館建設は宮古にとって益の多いことだと思うのですが・・・。
 
 さて、vol.191は、のーしが やたーがらやー?
 
 宮古に「フィルムオフィス」ができるというのは、まーんてぃ ぷからすことですね。設立に関わってきた下地さんの熱い想いが伝わってきました。宮古を舞台にした映画がどんどん作りやすくなっていくことでしょうね。これから楽しみです。さー、んーなしー(皆で)どんどん宣伝していきましょう〜。(新図書館建設の白紙撤回のニュースは下地さんも憂いていましたね)。投稿たんでぃがーたんでぃでした。
 
 先の下地さんの話の中に書かれていましたが、神童の話は、まーんてぃ「宮古島でなければ生まれない物語」ですね。「釣り道具」の話もまさにそう。地元の海を知り尽くし、そこで遊び、その道具までも自分たちで作ってしまう。真剣でそれでいてユーモアにあふれていますよね。神童のやらびぱだのことを映画にしたら だいず、うむっしぱず!誰か作ってくれませんか?
 
 Rさんの「十六日祭」は、両親を想う気持ち、また沖縄本島から宮古に向かって十六日祭をする様子に、じーんときました。三重城に うがなず(集まる)人たちのふるさとへの想いにも熱いものが。時代が変わっても、十六日祭がずーっと続けられているというのは、人々の中にこういう想いがあるからなのでしょうね。改めてこの行事の良さを感じました。
 
 「一粒の種」の全国放送!ぜひ、周りの人にも知らせてくださいね。
 
 バードさん、お便り、たんでぃがーたんでぃ〜。「兄を想って書いた詩」にいろいろな想いが重なったようですね。宮古の高校生のみなさんの活躍も、励みになりますよね〜。東京にいても宮古を感じる催しはたくさんありますので機会がありましたら参加してくださいね。方言講座にもぜひ!
 
 今回も しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃでした。あなたの感想もぜひ、お寄せくださいね。
 
 次号は、3月19日(木)発行の予定です。どうぞお楽しみに〜。
 季節の変わり目です。感冒などしませんように。あつかー、またいら〜。