こんにちは〜。
4月も中旬だというのに、きょうは全国的に冬に逆戻りしたような気温になるようですね。
感冒しないように気をつけましょうね〜。
vol.218お届けで〜す。お楽しみください。
TODAY IS THE DAY
R(平良・西里出身)
この春の第82回選抜高校野球大会、甲子園では、沖縄県代表の興南高校がみごとに優勝しました。沖縄県民の喜びようは、くま・かまの掲示板への「優勝おめでとう!」の書き込みからも、十分に伝わっていることでしょう。
翌日遅くの飛行機で選手・監督・関係者の皆さんは帰って来たようですが、その後も報告会・祝賀会・○○賞受賞の報道や写真集発売等、沖縄ではまだその余韻に浸っています。
甲子園で沖縄県勢の試合が行われている時間は、県内の道路の交通量がだいぶ減ることから、みんなテレビ中継に釘づけ状態になっていることが容易に想像でき、県民の関心の高さがわかります。
私の職場でも沖縄県勢の試合が始まると、誰とはなしにテレビのスイッチを入れ、聞こえてくる歓声で試合を楽しみます。試合が進むとその歓声の大きさで見せ場を判断し、仕事の手を止め、画面が見える位置に移動するのもしばしば。机を離れられない人のため、だいばん(大きな)声で「今、○○君がヒットを打って、○点入りました。」と中継の中継を行ったりします。
今回の東京代表 日大三高との決勝戦は、土曜日だったので、家で ぬかーぬか(じっくり)と応援することができました。
興南高校は、前日の準決勝戦のような大量得点を取って勝ち進んだ時の動きではないことがすぐにわかりました。2回裏、興南高校のエラーで相手に2点を入れられ、3回裏には1点追加され、「0−3」となると、私の自問自答が始まりました。
やっぱり決勝戦は怖いのか・・・
力が発揮できないまま、終わってしまうのか・・・
「粘りがない」 これが沖縄の県民性か・・・
準優勝の結果でもりっぱだよ・・・
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6回表の逆転の喜びもつかの間、ふたきな(すぐに)同点に追いつかれ、その後は、どちらの点数も動かない、緊張の一球、一球。
そして延長12回を制し、最後に紫紺の優勝旗を掴んだのは、興南高校でした。
その後のインタビューで知ったのですが、エラーから2点を入れられた時、マウンドに集まった選手は、「楽しいな。」と声を掛け合ったそうです。そして、エラーしてもリードされても点が動かなくても、監督は、「チャンスは必ずやって来る、それを待て。」と言い続けたそうです。
優勝を目標に置いていたことはもちろんですが、その前に、選手たちは、一球、一球と真剣に向き合うことの積み重ねの上に優勝が準備されることを教えてくれました。相手と戦っているようで実は何事も自分との戦いであることを。
私の長女は、この春、社会人1年生になり、次女は中学1年生になりました。次女は、小さい時は、親の ちび(後ろ)にいつも隠れる引っ込み思案な性格で、保育園では登園初日から3日間泣き続け、小学校に入る前にはその緊張から心臓が痛いと言い出し、救急病院に行った経験もある子です。もう親の後ろに隠れられない程の体格に成長していますが、その性格は変わっているとは思えません。しかし、本人、克服しなければ、と思っていることでしょう。中学校の入学式では、新入生代表の挨拶も担当することができました。
どんな場面でもエラーはつき物。エラーは最初のうちで出しておいて挽回すればよい。それだけ挽回する時間を長く持つことができる。あきらめるな。普段は、その力をためて、ためて、ためて、そして、その時が来たら一挙に爆発させる。
桜前線のニュースと まーつき(一緒に)報道された興南高校の野球部から改めて教わったことです。社会人1年生の長女も中学1年生の次女も新しい環境下では、エラーの連続でしょう。転んで起きて、転んで起きて、頑張ってほしいものです。
宮古の母も沖縄県勢の試合だけではなく、時間があると全試合を見るほど甲子園が大好きでした。「楽しみが終わったさー。」と言う母の声が聞こえてきそうです。
諦めきれない話
クイチャーマン(下地・与那覇出身)
今年一月のある日、午後3時過ぎのこと。用事を済ませての帰り道、家の近くに差し掛かったとき、道端に立っているお腹の大きな青年に声をかけられた。
「この辺で、宮古出身の若い人を知りませんか」と宮古なまりの共通語で言うので、事情を聞いてみた。
「今朝、宮古から那覇に来て、沖縄市に中古車を買いに行くために、バスセンターでバスを待ってベンチに腰掛けていた。そのとき、自分の腰掛けたベンチの、体のうしろに置いていた手提げバックが置き引きに遭ってしまった。そのバックには、中古車代金として用意していた現金65万円、免許証、携帯電話などが入っていた。バスセンターの監視カメラを、ガードマンの立会いで見せてもらったが、バスの陰に隠れて、盗られた様子などは映っていなかった。警察に被害届を出し、一文無しの自分に警官が千円カンパしてくれたので、ここまで来た。この近くに以前友人が住んでいたので、訪ねてみたが、2年ほど前に引っ越したとのこと。この辺に住む宮古出身の若い人に聞けば、友人が今どこにいるのか分かるかもしれない」という。
「宮古出身の若い人のことは知らないが、私も宮古の下地の出身だ」と伝え、困っているのは分かったので、なにか力になってあげよう、と思いいろいろ質問してみた。
「じゃ、朝からまだ何も食べていないのか」と聞くと、青年は頭を縦に振った。「近くに美味しいそば屋があるから、一緒に行こう」と誘い、歩いて3分ほどの店に2人で入った。
沖縄そばの「大」を注文しようとしたら「中」で良いという。じゃ、おにぎりか稲荷もつけようかと聞いても、要らないとのこと。青年は運ばれた沖縄そばの、中身だけ食べて、汁はほとんど飲まずに残した。「汁は飲まないのか」と聞くと、「水の量り売り店で、水をたっぷり飲ませてもらった」と言う。わたしは先ほどからの彼の“食欲事情”に納得した。
つんだらーさ、あら、うわがうぷばたー、みずばたしぇーか(かわいそうに、それなら、君の大きなお腹は水腹なんだ)と思った。
「ほかには、親戚とか知り合いはいないのか」と聞くと「東村に友人がいる」だけという。おお、これまた不思議。東村は妻の故郷だ。東村まで行けば、その友人が2,3日は泊めても良いといっているとのことだが、東村までは、名護経由のバスで2時間、運賃は片道3千円ほどもかかる。
他に妙案はないかと考えながら、青年の家庭事情なども尋ねてみた。青年は名前を名乗り、池間の出身、32歳であるなどと話した。青年が名乗ったのは、奇しくも20年前に亡くなった私の幼馴染と、同姓同名であった。
「母が5年前に亡くなり、池間で病弱の父が一人で暮らしているので、自分も名古屋で働いていた職場を先月辞めて宮古に帰った。仕事を探すためにも車が必要なので、買いに来たところだった。退職金が500万円ほど残っており、今回の出来事は父には言えないが、また出直したい」
「それなら、東村に行くよりも、とりあえず池間に帰って、また来ればいいさ。私が飛行機賃を貸してあげよう」と言うと、青年は嬉しそうに同意した。私は自分のケイタイで行きつけの旅行社に電話し、宮古行きのANAの最終便に空席が多いことを確認してから、青年と一緒にタクシーに乗り、彼を近くの空港行きのモノレール駅まで送った。
私は、タクシーの中で、青年に3万円を渡した。父親に土産でも買うと良いだろうと、航空賃に上積みした。青年は盛んに礼を述べ、明日中には振込みますと言い、連絡先の手がかりにと思ったのか私の名刺を求めた。私は指笛王国国王の名刺を渡しながら「ところで○○君は、指笛出来る?」と聞いてみたが、青年は首を横に振った。タクシーを降りてからも、青年は何回も丁寧にお辞儀をしていた。私はタクシーをUターンさせ家に戻った。
翌日、青年からは何の連絡もなく、ひょっとしたら、だまされたのか、との思いが軽く頭をもたげたが、2日後私のケイタイに青年から連絡が入った。「いろいろありがとう。26日に、また車を買いに那覇に行きますので、お金はその時会ってお渡ししたいと思います」と言う。「じゃあ、連絡を待っているから」と私は答えた。
しかし、26日には何の音沙汰もなく、それから2ヶ月あまり、青年からは何の連絡もなかった。まーんてぃー うりゃ あしれーどぅ にゃーん ぱず(ほんとうに、これは やられてしまったに違いない)そう思うようになっていた。
そして2週間前、青年と最初に話した道端付近で、お腹の大きな、あの青年とよく似た青年が座り込んでいるので、近づいて名を名乗り、声をかけた。
「○○君だよね」
「いいえ、違います」
「私と一緒にそばを食べに行ったでしょう。 私から3万円借りた覚えはない?」
「いいえ」
「宮古から中古車を買いに来たでしょう。」
「私はここの4班に住んでいる△△です」
言われてみれば、宮古なまりもほとんどない話し方になっていた。
青年の表情には生気がなく、視線も定まらず、無精ひげが伸びていた。
ところが、1週間前、今度は道路の反対側に座っている同じ青年を発見。三度目の正直と思い、また尋ねてみた。
「△△君だったよね」
「いいえ、違います。××です」
「え?△△君でしょう」
「違います。5班の××です。似た人は沢山いますから・・・」
やはり、宮古なまりはないが弱々しい話し方だった。班が4班から5班に変わっていた。
○○君は、ふるさとを離れて本土で働き、リストラにでも遭い、心を病んでふるさとに戻ってきたのだろうか。仮に3人の青年が同一人物であれば、あり得る話だ。
これまでの経過から、しまい、のーでぃんにゃ あんさーめー(しまった。でも、もう仕方がない)との気持ちである。
あんすぅが、また、(しかしながら、また)そのうち「○○です。遅くなりました・・・」と私のケイタイに連絡があるかもしれない、と諦めきれないでいる。
終の棲家を求めて
菜の花(伊良部町仲地出身)
四月。始まりの季節がやってきた。
新品ランドセルの一年生。新しいスーツにちょっとゆがんだネクタイ姿の新入社員。初々しさ溢れる学生服に新しいカバン、輝くような笑顔で登校する学生たち。
初めてというのはなんであれ、緊張と不安と期待が まんちゃーくんちゃー(混ぜこぜ)で、何とも落ち着かない精神状態になるものだ。して、またそれが新鮮な気持ちにさせてくれるから ズミ(良い)。
そういう私も数年前に大学病院から老人保健施設へと転勤し、今年で何度めの四月を迎えるのだろう。
医療から福祉へ、治療から介護へと、新しく ぱず(足)を踏み入れた頃は気持ちの切り替えに どうまうりて(右往左往して)いる私がいた。時間というものは、 まーんてぃ(本当に)ゆるやかに変化していく流れを作ってくれるもので、今では施設で働いていることが だいず(とても)自然に思えてくる。臨床にいた頃が遥か かまーんかい(彼方に)消えていくような感じさえある。
日々の すかま(仕事)は やまっさ(大勢)の老人の介護と健康管理が主である。限界に近いほどの忍耐力と、説明しがたいほどの愛しさを「私」という人間の内からさらけ出して老人たちと向き合う。
どんなに疲労困憊であっても、すかま(仕事)に向かわせる一歩が、老人たちの一言であり笑顔であることは間違いない。その笑顔に魅了されつつ、んなみまい(今なお)職場に留まる私がいるのだ。
病院では治療や死は日常であったが、施設では医療行為ができないので具合の悪い老人や急変の際はすぐに提携の大学病院に搬送する。治療や看取りがなくなった分、パフルな老人の姿ばかりが目に付いてしまう(実際にパワフルなのだ!認知症になると歳をとることも忘れるのだと本気で思っている)
施設で働くようになって、命の最期の一滴まで生き抜こうとする人間の姿の神々しさ、逞しさと併せて、生と死の全く同じ重さというものを深く感じる。
臨床で働いていた頃は、治療が終わって退院する患者さんを「どうぞお大事に」と見送った後は、どこでどんな生活をしているのか知る由もなかった。老人施設へきてはじめて元患者たちのその後の生活を目の当たりにすることができた。
ゆさらび(夕刻)になると、毎日のように出口を探して落ち着かなくなる老人がどのフロアにもいる。職員にバス停を聞いたり、住所を口にしては連れていくよう頼んだりする。
施設の中は自由にどこへでも行けるので、エレベーターに乗り込んだり、他のフロアに行ったり、ときには玄関から出ようとする老人に付きっきりで、一緒に出口を探すという役を演じる。
「困ったな〜、困ったな〜」との老人の言葉からは焦りや混乱がひしひしと伝わってくる。暗くなったので明日明るくなったら一緒に探そうとか、すぐに休めるようにお布団用意しましたとか、明日の朝御飯も頼んであるからとか・・・必ず反応するセリフがあるので、ひとしきり歩いたあとこの言葉を伝えると「今日は帰るのやめよう」と、一緒に出口を探してくれた職員に心を許すのか、または自分を委ねているのか、先ほどの興奮がうそのように穏やかになったりする。
今年104歳になるはなちゃんは、出口こそ探さないが「自分の家なんだから帰ってもいいと思わない?!」と んかい(迎え)に来ない息子を一緒に叱ってほしいと、目が覚めて眠りに着くまで繰り返し職員に懇願する。「息子さんには電話しましたよ」この一言で落ち着くが、また同じことを口にする。息子さんは病身を押して面会にきては、はなちゃんの大好きなお菓子をたくさん持ってきていたが、はなちゃんはそのことを覚えていない。息子さんが亡くなったことも知らない。
息子さんを叱るはなちゃんの言葉に、若い職員は心が痛むという。でも、はなちゃんの言うことにはものすご〜く筋が通っていて、私たちには返す言葉もないほどの説得力があるのだ。
「もう百にもなるのよ。此処にいて皆に可愛がってもらって幸せよ。ここも楽しいけど自分の家があるのよ。ここがイヤってんじゃないのよ。でも、いつどうなるかわからないじゃない。家には私のタンスや着物や大事な物がおいてあるのよ。それを大人しくいじって、一日じーっと庭を眺めていたっていいじゃない?!自分の大事なものを見ながら静かに死んでいきたいのよ。それのどこが悪いの。さ、もう帰りましょ。」
このセリフは私が転勤してきた頃から耳にしている。何年もずっと かーらん(変わらない)はなちゃんの気持ちなのだ。もっともな話で頷くことしか出来ない。
一時は在宅に向けて話も進んだが、核家族で介護人材は乏しく、息子夫婦も高齢で在宅介護は難しいと、とうとう一度も帰ることなく今日に至っている。しかも、次の生活の場所となる施設を探さないとならないのだ。
老人保健施設の役割の一つに在宅復帰への支援があるが、施設から自宅に帰れる老人は実際にはほんの一握りである。人は一体いつから住みなれた家で最期を迎えることがこんなにも難しくなってしまったのだろう。
畳の上で死ぬという言葉は、畳のない生活が当たり前になっている現代ではもう死語に近いのかもしれない。住みなれた家を離れ、終の棲家を求めて次々と慣れた施設を移りいかねばならない現代日本の老人たち。歳をとらない人はいないが、老人にならない薬が開発できたらこの問題は消えるだろうか。
しかし、それは あらいん(あり得ない)こと。自分の未来の姿を思い重ねると のーてぃまい んざいん(なんとも言い難い)この心境・・・。
私もあなたも、さぁ、どうするべき〜!
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古では4月4日に海開きが行われ、やまかさ(たくさん)の やらび(子ども)たちで賑わったようですね。(↓で紹介されていました)
宮古毎日新聞
あんちーかんちー
私が子どものころは「海開き」というのはなかったなぁ。考えてみたら、昔は、サニツ(旧暦の3月3日の浜下り)が海開きのようなものだったのかねー。(あ、明日が旧暦の3月3日ですね)明日は、うまかまの海で、浜下りの姿があるのでしょうね。
そして、今度の日曜日18日は、「第26回全日本トライアスロン宮古島大会」が行われますね〜。今年も宮古テレビでは、朝6時半からネット中継をするそうですよ。宮古から あがーた(遠く)離れていても、トライアスロンが楽しめますね。ぜひ、チェックしてください。
みゃ〜くてれびhttp://media.miyako-ma.jp/mtv/
それから、選抜高校野球大会の興南高校の優勝、ずみ!でしたね〜。くま・かまの掲示板では、興南高校の優勝までの対戦の様子や沖縄での応援の様子をクイチャーマンさんが伝えてくれました。
今回のくま・かまは、その興南高校の優勝に関連して、Rさんの話からスタート。クイチャーマンさんのびっくりなお話。菜の花の施設物語とお送りしました。のーしが やたーがらやー?
Rさんの話は、決勝戦での感動と娘さんたちへエールを送る気持ちが、だいず伝わってきましたねー。選手のみなさんのエラーのあとの話や監督さんの話、素晴らしいですね。「TODAY IS THE DAY」(今日がその時)は、Rさんの好きなフレーズだそうで、「その時に力が発揮できるよう、日々の過ごし方が問われているということを今回の決勝戦で感じた次第です。」ということでした。
クイチャーマンさんの話は青年のほうの諦めきれない話かと思っていたら、なんとクイチャーマンさんのほうだったとは、オゴエー(びっくり)!同郷の人が困っている様子を見て、ソバを食べさせ、飛行機代や、お小遣いまで渡したのに・・・一度の連絡の後、何も音沙汰がないとは。でも、諦めきれない気持ちも分かりますよね。クイチャーマンさんは「病気であれば、早く良くなって、良い方向にいけばいいなーと思っています」と話していましたよ。
菜の花の施設のお年寄りたちの話は、身につまされますねー。特に、はなちゃんの、息子さんが亡くなったことも知らず、家に帰りたいと一生懸命話す姿には、こみあげるものがありました。出口を探すお年寄りたち。やはり、家に帰りたいんですよね。昨年亡くなった義父もそうでした。でも入院してから一度も家に連れて帰ることができず・・・。菜の花の現場での話は、いろいろなことを伝えてくれますね。彼女の「生と死の全く同じ重さというものを深く感じる」という言葉。印象的でした。
あなたは、どんな感想を持ちましたかー?
ぜひ、きかし ふぃーさまちよー(お聞かせくださいね)
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふ〜。
(きょうも最後までお読みいただき ありがとうございました)
次回は、三週間後の5月6日(木)発行予定です!
お、ゴールデンウィークが終ったあとだ。うむっし、ぷからす 毎日でありますように〜。あつかー、またや〜。