こんにちは〜。 暑い日が続きますが、がんづうかりうらまずなー?
今回は、少年のぱなす(話)が集まりましたよ。
どうぞ、お楽しみくださいね〜。
少年野球
大和の宮古人(城辺・長南出身)
息子が野球少年になったきっかけは、小2の冬だった。
毎年小学校でマラソン大会が開催されていた。学年別に距離が設定されており、男女共参加する。コースは学校周辺の住宅街で土曜日の開催だったので大勢の父兄も応援に駆け付け出発前からワイワイガヤガヤ賑やかだった。
我が息子も手を振りながら余裕の顔で校門を出る。2年生は1・5キロだ。速い子は程なくして戻ってくる。ゴール付近で見学していたが息子は、なかなか戻ってこない。なんと後ろから2番目で戻ってきた。
これには運動音痴の私でも大ショックだった。私の息子と思えばショックを受ける事も無いのだが主人が長距離ランナーだったことから、主人のDNAを少しは受け継いでいるのではと勝手に期待してしまったが為に受けたショックだった。
その日の夕方から私の暴走が始まった。我が家は中学校の側にある。周囲は1キロ弱あるが、3周するように命じた。息子はビックリしたようだったがマラソンの結果には自分でも不本意だったらしく何も云わずに走りだした。悪母は自宅の前で激を飛ばす。
2〜3日してから気が付いたが3周するのに1週目と2・3週目とでは戻ってくる時間がかなり違っている。みーらいん(見えない)所で歩いていると確信。逆回りに見に行くとやはり歩いていた。唄を歌いながらノンビリと。これには怒るより先に顔を見合わせて二人で笑ってしまった。
翌日からはストップウオッチを持ってタイムを計る事にした。さすがの息子も真剣に走り出した。雨の日も雪の日も暑い日も寒い日も1年間続けてみた。
そして翌年の大会には何と3位になったのである。すると ぴるます(不思議な)もので走ることに興味を持ち長距離だけでなく短距離も得意になり、リレーの選手にまでなった。走ることに自信がついたことで、リトルリーグに入部することになった。
小学3年生に入部したが残念なことに肩が弱かった。幼児のころの左利きを小1で強制的に矯正したために右手が むどぅこーす(うまく使えない)になったようだ。(現在でも野球と鉛筆以外は左手を使っている)
矯正せずに両手使えるようにしたかったが担任の、英語の授業が始まると不利になる、矯正したほうが将来の為には良いとのアドバイスで始めたが、右手の力が弱く球に威力がなくコントロールも悪かった。その時点でグローブを変えて左投げにしておけば違っていたかもしれないが、私もかたくなに右投げにこだわってしまった。バッティングだけはスイッチヒッターになったので珍しがられてレギュラー入りが多くなった。何が幸いするか解らないものです。
高校進学で甲子園の常連校に受かったが親の知らぬ間に辞退してあった。なぜ?と聞くと「自分のレベルではベンチ入りさえ難しい。レギュラー入りは夢のまた夢になるだろう。確実にレギュラー入りのできる学校がいい」と近くの県立校に入る。
1年生からレギュラーにはなった。といっても才能があるわけでもなく痩せて小柄な事と、そこそこに足が速かった為にファーボールで出塁し、盗塁を繰り返してホームベースまで戻っていた。ちょろちょろしていることで相手のエラーを誘ってしまうようである。引っかき回すために1番バッターになり監督の思惑道理3塁までは必ず進んでいた。バッティングは今一だったが守備は得意であった。1、2年はセンターを守っていたがフライを取ることに生きがいを感じていた様に思う。99パーセントは捕球していたから。
3年生でキャプテンにもなった。親としてはスター選手でもないのにキャプテンとは恐れ多く辞退して欲しかったが「長打者だけが選手ではない僕の持ち味は盗塁と守備にある」と最後まで続けた。闘争心よりもドンマイ精神が大で、ピッチャーが打たれようがエラーしようがドンマイ、ドンマイと平常心でいる。
監督にも言われた。「キャプテンにした理由が分かりましたか?点を取られるたびにイライラ怒っていては纏まりません。冷静に皆を引っ張っていけるからキャプテンにしたのです」と。3年間レギュラー入りし、3年生では3回戦まで行けたことで満足したようだった。
最後の親子合同の打ち上げの挨拶で「我が家の鬼コーチがいなければ僕の3年間は無かったと思う。感謝している」と言われて、いつも心に引っかかっていたものが取れたような気がした。
成人しても草野球を楽しんでいたが5年ほど前にアキレス腱を切断してからは一切しなくなった。
◇あの話をもう一度
ひさぼう(平良・西仲出身)
「はじめての旅 宮古からオキナワへ」( vol.122 2006/4/20 )
1956年(昭和31)、小学校5年の夏休みに初めてオキナワに行った。
那覇に住んでいる一番上の姉夫婦一家を訪ねてである。たしか琉球海運の若葉丸だったかと思う。七色の紙テープを引きながら船が桟橋を離れ、海上を流れる曲が「蛍の光」から「軍艦マーチ」に変わって旅は始まった。
初めて乗る船の速いこと。船尾にまわって遠ざかる平良、サッフィ、パイナガマを見送った。砂山と見られる所を確認してから船首に移動すると池間の灯台が驚くほど近くに見えて左から右に移っていった。
伊良部の後姿を眺めているうちにこれが船酔いというものか、気分が悪くなって船室に下りたあとは地獄だった。夜が明けて那覇の泊港に着く頃にはゆらゆら幽霊みたいになっていたらしく迎えに来たねーねー(姉)がおどろいた表情を見せた。
あっがいたんでい!のーりゃーんにゃうりゃあ(なんなんだこれは)、陸の人となって早々に目をみはった。タクシー、バス、トラック、米軍車十輪車、あらゆる用途の大型、小型の車が目の前を次から次ぎ通り過ぎて行くのである。
こんな光景は、普段、ぬーま(馬)と荷車しか見慣れない目には仰天そのものだった。(当時、平良にはバスは走っていたけどタクシーはまだ見かけなかったと思う)しかも走っている道路がナウサンツではなく、ぴかぴかの滑るような道路である。一号線と呼ばれていた軍用道路に途切れることなく車が縦列で走っているさまは、今まで見てきた宮古の景色とは違う異国だった。ひんぱんに見るアメリカ兵の姿とカーキー色の軍用車がその思いを倍加した。
こうして、はじめて見るオキナワは圧倒的な数の車に対する仰天で始まった。次は驚異的な人の数である。平和通りの人ごみに揉まれながら、二度目のあっがいたんでい!ナニカコレハ!と息を呑んだ。昼間からナンでこんなに人がいるのか?昼間なら宮古の大人は、畑にいるか家の中でハタ織りしているか、外でさやふ(大工)をしているはずである。これだけの大人が昼間から遊んでいて一体どうなっているのか、学校の先生に聞いてみたいと思った。
国際通りに出たときは、今度は人の数ではなく果てしなく続く商店街である。真ん中を通る道路も、下里・西里通りとはケタ違いに広い。しかも今まで見たこともない衣類やら贅沢品があとからあとから目に飛び込んで来る。山形屋デパートに入ったとき驚きは頂点に達した。中だけではない外観、なんと五階ヤーではないか! 二階ヤーしか知らないのにいきなり五階である。屋上まで上がって見下ろしたときはほんとに夢のようだった。学校に戻ったらみんなに話してやろうと思った。
あと強烈な印象に残ったのが、夜のネオンサインである。真の闇、真っ暗な夜を夜と思っている者にとって、赤、青、黄色のネオンサインが数知れなく輝いている夜は信じられないことであった。これが後々妖しげなネオンサインに惹かれて夜な夜な歩き回ることになろうとはその時知るはずもなかった。当時、テレビはまだない。激しく動き回るパチンコ店のイルミネーションが、見ていて最高におもしろかった。これもみんなに話してやろうと思った。
オキナワに来てから妙なことが起こっていた。ていだ(太陽)が西から上がってくるのである。どう考えても、平良だと伊良部の左側から太陽が上がってくるように見えるのである。「オキナワでは太陽は西からあがるのか」と姉に聞いたらそんなことはないと笑っていた。後から知ったことにはこれは方向音痴の症状だった。今でもレストランや飲み屋で途中トイレに立つと、戻ってくるとき自分の席がみつからない。
今、世界遺産に指定されている中城城址は、そのころ遊園地と動物園であった。観覧車と二人乗り飛行機がぐるぐる回る風光明媚な子供の天国だった。太平洋が見える側の林が動物園になっていて、ここで初めて、らくだ、ペンギン、七面鳥を見た。熊もいたかも知れない。ひつじがンメエーと鳴くから、あば!と珍らしかった。
1956年8月6日、待ちに待った日がやってきた。「美空ひばり沖縄公演」である。国際通り沿いの国映館を長蛇の列が取り囲んで、通りにはカタカナのコの字を縦にした歓迎門が蘇鉄の葉で造られていた。美空ひばりが19歳のときである。いつもスクリーンで大きく見ているから舞台でリズムをとりながら歌っている姿がやけに小さく見えた。時代劇のお姫様とか鞍馬天狗の杉作役で馴染んでいたから、白いドレス姿がなんともハイカラで天使のようだった。「私は街の子」かなんか歌っていたと思うけど、どんな曲を歌っていたかは思い出せない。
はじめてのオキナワは見るもの聞くものすべてが新しいことの連続で目をみはったままだった。この体験があったのではじめての東京は、電車と線路がめずらしいくらいで大都会のショックはそれほどなかったように思う。
再び中学一年の時に来たときはアメリカの34代大統領にも出会った。アイゼンハワー大統領(35代がケネデイ大統領)である。60年安保反対のデモがあまりにも激しく羽田空港に降りられなかった大統領専用機が急遽オキナワに着陸したのである。一号線で米兵のカービン銃が林立するなか、オープンカーに乗った大統領のヤカン頭があっという間に通り過ぎたのを見たのだった。
オキナワと宮古の距離は海上300キロと言われる。格差は大きかった。
国際通りは戦後10年間の復興ぶりがめざましいことから“奇跡の一マイル”と称され、アスファルト化された最新の道路は、復帰前の本土のレベルをはるかに超えていた。
宮古島から来た小学五年生はそれらを何も知らないでただただ驚いて見ていたのだった。
あんぱず(蜘蛛の巣)
宮国勉(城辺・西城出身)
蜘蛛の巣のことを宮古島城辺西城あたりでは あんぱず(蜘蛛の巣)と呼ぶ。
子供の頃、卓球のラケットより一回り小さい針金の輪を だてぃふ(暖竹)などの先に付け、それに何重にも あんぱずを巻き付けて がーす(ニイニイゼミ)を捕った。
樹に留まっているところに網を押しつけるように羽をくっつけ捕るので、粘着力のある蜘蛛の巣が選ばれる。蜘蛛の種類は乳房棘蜘蛛(チブサトゲグモ)と呼ばれる種類で、今ではあまり見かけなくなった。
現在はジョロウグモに占領されたかと思えるぐらい、黄色と黒の横縞模様の蜘蛛が目に付く。乳房棘蜘蛛の あんぱずはジョロウグモの巣と比べて粘着力が勝り“蜘蛛”も幼い子供の遊び相手にも最適だった。
沖縄方言ではクーバーと呼ぶそうで、背中を拡大して眺めると、どこかシーサーに似て見えるそうである。
蜘蛛は昆虫の仲間のようだが“蜘蛛網クモ目”に分類され脚が8本あり、昆虫は6本なので区分される。知恵のある虫と漢字では書く蜘蛛、知恵を巡らし巣を作るところを選び、通りすがる虫たちを網を張って待ち伏せて食事にありつく生活をしている。
蜘蛛は日本では約1500種いるらしいが約6割が網を張り、残りは網を張らない種類らしい。あんぱず(蜘蛛の巣)は巣と呼ばれるが、家ではなく、夕方には片付ける種類もいるそうである。
宮古島には徘徊性で網を張らない やーばん(アシダカグモ)が居り、いきなり白いものを抱えて、どこからともなく出てくるが、その抱えていた卵を横取りした時は、家を護ってくれる者をいじめた罪悪感を味わった。
ゆさらびがたん まーに と うぎゃすぎー または まんじゅうぎーぬきゃーと つなぎー あんぱずゆ ぱりゅー とぅくるど うむいだしゅう (夕方クロツグと木橘、又はパパイヤの樹などと繋ぎ、網を張る様子を思い出す)
乳房棘蜘蛛(チブサトゲグモ)の あんぱずは中央から放射状に張られた糸に、同心円状に細かく糸を張る構造で円網(えんもう)と呼ばれる。以下に蜘蛛の気持ちになって あんぱず(網)を張る手順を書いてみました。
1.畑の地境の相思樹並木の傍らに立ち がーす、びーず、かた(セミ、
トンボ、バッタ)などが飛んできそうな場所を見定める。
2.かじまい てぃだまい だいず たかさをまい さんみんっすゅよ〜!
(風と太陽は大切だ、それから高さも考慮しろよ〜!)
3.周りの樹などを結んで大きな三角形を作るよう目星をつけ糸を風に流せるような第1点に着く。
4.んーぶんかい たやーいじ(臍に力を入れて) 糸を流す。んざばー きど とびぴずば!(何処までも飛んでいくよ〜)
5.その糸を伝い目指す第2点に移動して固定し、更に糸を流す。
6.更にその糸を伝い第3点に移動して固定し、最初の点に繋ぎ三角形の枠糸が張れたことになる。
7.3カ所の頂点から網を張る中心に向けて縦糸を張り、中央点に移動し 枠糸と中心をほぼ均等な間隔で割り付け縦糸を絡ませる。
8.今度は中央から外側に向けてらせん状に時計回りで足場糸を全体の半分ほど張る。
9.粘着力持たせるために ゆだず(よだれ)を混ぜて続きの横糸を張り 円形に仕上げる。
10.くいしーど だいたい かんせい(是でだいたい完成)
11.あつから まんなかん びじみーでぃ(それでは真ん中に座ってみよう)
12.あば、じょうとうやーば だずま まい にゃーん(おお、最高の出来だ、余計な皺も無い)
13.お!来客だ!やぱい!むまぎ なかでぃ がーすどう。(お!来客だ!やった儲かった!美味しそうなニイニイゼミだよ)
14.かしくぅゆど やまかさ つかい やーすむぬ やーたーば!(糸を大量に出して腹ぺこだったよ!)
15.ちびぐうゆ ふぁいってぃ あとぅばー あつぁんかい ぬくしゅーかでぃ。(お尻を食べてあとは明日に残しておこうかな)
16.うむーたー とおり ぬ がーすぬきゃーぬ んつどぅやりうきぃ。(思った通りの蝉の通り道だったようだ)
昔のお年寄り達は自然の事象、あんぱず(蜘蛛の巣)や蜂の巣の作られている処などから以下のようなことを云い、危機回避していたようである。
あらぁん あんぱずゆ ぱりーうーば かぜーふかんぱず!
(表に網を張っているから風は吹かないようだ!)
びーぬ みーんど ふまばつ ぬ すーぬ あーば くぬずや かじふきぬ だうがら っすさいん!(奥まった処にアシナガバチの巣があるので今年は台風の当たり年になるかもしれない)
などと、農作業を終え腰を伸ばしながら、周りの自然を眺め、豊作を願い心安らかに帰路に着いたようである。
今朝は庭のジョロウグモの巣に みぱな(顔)から突っ込み、久しぶりに蝉の気持ちを味わいました。小さいジョロウグモを殺虫剤で退治し十数張りほどあった あんぱず(蜘蛛の巣)を片付けました。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
広島市では、豪雨の影響で、大変な被害が出ていますね。ニュースを見る度に被害がどんどん大きくなり、言葉を失ってしまいます。台風でもなく、雨でこんな大きな被害がでるとは。お見舞い申し上げます。
昨日は、夏の甲子園で沖縄尚学の試合がありましたね。ハラハラしましたが、劇的さよならで2勝目。素晴らしい試合でした。
旧盆も無事に終わって、ホッとひといきという方も多いでしょうか。宮古では、ぶーぎ(サトウキビ)の夏植えが始まって、さに(苗)を切ったり、畑に植えたりしている姿が、うまかま(あちこち)に見られます。
菜の花が旧盆に帰省したのにあわせて、恒例オフ会@宮古を8月12日に「和風レストランたまよせ」で行いました〜。13名(與那覇淳さん、菜の花、タイラー、さどやませいこさん、よなちゃん、カニさん、アモイさん、ぶらぶら猫さん、ざうかにさん、D介さん、Oさん、松谷、初美)が うがなーり(集まり)、あんちのぱなす(あんな話)、かんちのぱなすっさしー(こんな話をして)、うむっしどやたーどー(面白かったですよー)。三線や民謡の名手ぞろいですので、歌って、踊って、だいず楽しい時間を過ごしました。みなさん、お疲れ様でした!そして、のりぼうのお兄さん、んまーんまの(美味しい)料理をたんでぃがーたんでぃでした。
くま・かま掲示板では菜の花が宮古での様子を書き込みしています。ご覧くださいね。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
夏の高校野球の真っ最中ですね。選手に限らず、野球をしている一人ひとりに大和の宮古人さんのようなご家族がいて、物語があるのでしょうね。「ドンマイ、ドンマイ」と励ます息子さん。性格の良さ、東山さんゆずりだなーと思いました。打ち上げでの言葉は、最高のプレゼントですね。
昭和31年というと今から58年前。当時の沖縄(宮古の人は、沖縄本島のことを沖縄といいます)の事が目の前にあるかのような、小学五年生ひさぼう少年の新鮮な驚きが、リアルに伝わってきました。当時を知る貴重な見聞録だと思います。
宮国さん、庭先の蜘蛛の巣から、いっきに子ども時代へとタイムスリップ。さすがの虫博士の内容でした。その観察眼には、まーんてぃ脱帽です。蜘蛛のことをよく知り、気持ちまでも。生きとし生けるものの営みの凄さを子どもの頃から知っていたんですね。
今回の貴方の感想もぜひ、お聞かせくださいね。
今回も しまいがみの お付き合い すでぃがふー!
(最後までの お付き合い ありがとうございました!)
次号は、9月4日(木)発行予定です。
きゅうまい、かぎ ぴかず(佳き日)でありますように〜。あつかー、またや〜。