2016年、明けましておめでとうございます!
かぎそうがつ(素晴らしい正月)をお迎えのこととお喜び申し上げます。
くとぅすまいくま・かもーよろしくお願いしますね。
宮古への想いが、詰まった新年号、お楽しみください!
兆し 2016@宮古
宮国優子(平良・下里出身)
昨年の2015年は、ATALASネットワークの活動と東京での交流の場所作りと子育てで一年が終わってしまいました。こんなに宮古と東京を行ったり来たりすることは今までなかったかもしれません。出不精の私にとっても大変革でしたが、宮古の変わりようは更に目を見張るほどでした。「あぁ、宮古はこんなに動いている、生き物みたい」と思ったのでした。
題名を「兆し」にしたのは、私が東京で住んでいても時代がこんなに変わっていることを、かつてないほどひしひしと感じているからです。いくら島といえども、その余波は計りしれないだろうと思うのです。いや、逆に宮古と東京を行ったり来たりしているから特に感じるのかもしれません。
正直、いろんな意味で大変すぎて、一年が五年くらいに感じました。ですが、宮古の神様はきちんとタイミングをはかっているんじゃないかと思うほど、絶体絶命で困ると必ずどこからともなく援助の手が伸びてきました。宮古の人も東京の友人たちもいつも絶妙に助けてくれる。さすが宮古ゆ、と思う。
ATALASとしての目的も達成したいけれどもそのテーマこそが究極の自己中心じゃないか・・・と何度か心の葛藤がありつつ動いていました。「宮古でやったら面白そう(読めば宮古的な)」「宮古にはこんな感じのものがいいんじゃないかな」「あれもこれもいつか誰かやってくれないかな」と考えていました。
そのとき、心の中のもう一人の声がしました。「じゃ、気付いた人、思った人がやればいいさいが」。もう一人の私も答えます。「だからよ、そうだはず」。行ったり来たりしているうちに、今や、私だけでなく、そう思ってくれた人たちと知り合い、相乗効果的に立ち上がって、そして手をつなぎ始めている。そう実感した一年でした。
会う人、会う人に、このような話をすると、わかってくる事がありました。私の言葉が伝わる人伝わらない人がいるということです。伝わる人というのは、元来、私が思っているようなことを自分のなかで何度か自問自答をしている人です。「島が変わってきている」「島の文化って残っていくんだろうか?どうやって伝え残せば良いんだろうか」「島をどうしたら良くする事ができるのか、どうやってみんなが、未来の子どもたちが幸せになるんだろうか」「人の幸せってなんだろうか」と常に考えている人です。
私は「なんのためにやってるの?」と聞かれると「島らしさを個人が発信することが、島の将来必要だと思うから」と答えています。曖昧すぎて、さっぱりわからないかもしれませんが、私のなかで今はそれ以上の言葉が見つかりません。
とっかかりとして、宮古の歴史や文化を楽しむ仲間を増やして楽しみたいのです。「自分の足下を見つめる」と下地暁さんはずっとおっしゃっていますが、まさしくそういう事の積み重ねが、宮古らしい幸せを具現化するキーになっているような気がするからです。それが島の平和、県の平和、日本の平和、アジアの平和、世界の平和につながる気がするんです。おごえ、話が大きくなったさいが。個人的には、宮古オタクと話すのが、今、一番の楽しみです。今年は、もっともっと暴れたい、まちがった、学びたい、笑。
18まで島にいても宮古の歴史なんて興味がなかった私ですが、島を出てみていろんな人に会うたび、いろんな困難に出会うたび、支えてくれたのは宮古のメンタリティでした。簡単に言ってしまえば、家族や友人の言葉や島のことわざです。その元気にしてくれる言葉の根底は、歴史や文化にあるなと確信したのはこの数年です。でも、アホな私には難しかった。でも、私には秘密兵器があるのです。これは子どもの頃からの私の一番優れた点だと自負しています。いい人が集まるのです。
友人からも「いつも家庭教師がいるよね」というほど人には恵まれているのです。優しい人、頭のいい人、歌や踊りや特別な才能を持っている人、そして宮古のことを好きでいてくれる人、宮古に心を傾けてくれる人、その力を集結させて、私がじゃんじゃん面白い!面白い!って言い続けたいのです。発表したいです、世界に向かって。だって、知れば知るほど宮古は面白すぎるから、いつも驚くことが起きるから。どういうことかよ、まず!と思う。日々、すべてのご縁がつながってく様子が うとぅるす(怖)すぎる。
でも、実は、私が宮古のことをやりたいと思ったのは、そのポジティブな側面ではないのです。何年にもわたって東京で宮古の取材を重ねていくうち、違和感を感じたからです。新聞記事にはできない、泡立つ気持ち。言語化できなかったこともたくさんありました。
「ねぇ、宮古ってほんとにこれでいいの?」
「あららがまって言っても、情報のないところであららがまが出来ないことだってあるんじゃないの?」
「これって誰が損するの?」
「宮古の子どもたちじゃないの?」などなど、
頭にいろんなことが駆け巡っては消える数年間だった。美しい青い空、蒼い海に囲まれて育って、島の学びを身体ごと受けている子どもたちの良さ。それが時代なのか、社会構造なのか、とても活かされにくい。「なんてもったいない!」と何度も思ったのです。
豊かな自然に南国のリゾートというキラキラとした雰囲気の反面、たくさんの離島ならではの問題も満載。でも、島の問題は島によって個別過ぎて、スタディケースが使えない。いろいろ考えたけど、結局、解決するには自浄作用しかないように思う。それこそ、だいずエコさいが、ですね。そこにプラスして自前の仕事や学びがあるといい。別に、東京に日本に合わせる必要もない。宮古は宮古国でいいさいが。
例えば、宮古に行くと、日々笑いが止まらない。宮古のユニークな人材は世界でこそ通用するんだと思う。宮古はよっぽどワールドスタンダード。西洋と東洋と第三世界、世界の人々のちょうど真ん中にいる気がする。宮古はいろんな意味でどこでも誰でも必ずどこかしらつながっている。そんな気がする。えぇ、妄想ですけどね。
エンターティンする人材は島の身体で、島の心で、島の言葉で具現化させてほしい。そして、その胎動が始まっているように思う。やっと宮古がキタ!
クリエイティブとはその人がその人らしい問いや答えをもっていること。宮古のクリエイティブな人たちがどんどん光り輝いて世界の舞台にあがろうとしている。宮古の人の得意技はユニークさとユーモア。生活であろうが、商売であろうが、観光であろうが、研究であろうが、究極のホスピタリティ。どこかの真似じゃない宮古の神髄はそこなのです。友人が言った名言「ないものまで出してくる宮古の人」。まさしく、なのです。宮古の人と深くつきあったらわかる。みんな、無駄に熱い。
島の民謡の本をパラパラめくると、宮古の人がずっと何を考えてきたかわかる。「世(ゆぅ)」と言う言葉が頻繁に出てきます。私はこれが宮古の人が当たり前に身につけている感覚だなと思う。他人ごとが他人ごとじゃない、いつも自分ごとのように感じるからこそ、困っていそうな人がいたらすぐに助けようとする。思いやりとか優しさとかそんなマイルドなものじゃないけど。かなり単刀直入だったりしますが、それも含め、暑苦しいほど何かいつも燃えて、社会と個人が有機的に交わっているように思うのです。
島に当たり前の哲学は、多分、何千年も島の風土に根ざした「支え合う文化」。それは人だけじゃなくて、自然とも共生するという意味でも含めです。長い期間、外から入ってくるものはきわめてまれなものだった場所だから、何をも無駄にしない工夫がまだまだガラパゴス的に残っている。
100年前の人は、今のように飛行機で50万人近くが観光客で入ってくるようなことは想像もつかなかったんだろう。あるもので暮らし、あるもので楽しむ、そんな時代がつい最近まであったのが宮古なのだと思う。
仲良くしたり、もめたりしながらも、島にある手持ちのコマでなんとかする。それが宮古島の風土にあったやり方なのだろう。風土に関しては、どの場所でもいっしょで、その自然や風土にあったことで人は生き延びてきたんだと思う。「宮古は競争ではなくて共創」と誰かが言っていた。競争に見えても、それは共創が前提での競争だったりするからです。基本的に国でも人でもその背景を知ると、議論はしても喧嘩する気にはならないはず。おごえ、だいず平和さいが。
どこに行っても自然を見ているとうまく出来てるな〜と思う。自然はほんとに合理的。カオスに見えてもプラスマイナスうまく出来ている。そして、宮古の人を見ていると人間も自然のひとつだと感じ入る。その自然は何を求めるかといえば、自然そのものが生きのびること。人間で言えば、次世代にどううまくゆずり葉をしていくか、なのではないかと思う。そこにその風土の哲学や思いをどれだけ乗せられるかとみんな無意識に考えて行動しているんだな、と感じることが増えた一年でした。
最近、菜の花さんに会い、興味深い話が出ました。伊良部大橋の嘆願書を東京にもっていった一行に菜の花さんのお父さんもいらっしゃたんだそうです。「大橋ができれば、島に仕事ができる。もう島を出て行かなくてもいい」。実際は、大橋が出来て、良い面、悪い面、両面あると思います。一年ちかくたって見えてきた事もあります。島の経済や産業が流れが変わっていく様子が見て取れます。菜の花さんのお父様の言葉は、それまでの離島の離島としての思いがしみじみと伝わってきます。その思いは切れることなく、こうして話し伝えることでメンタリティとして残っていくような気がするのです。
今、宮古に見えている「兆し」は、これだけ社会が多様化して流れの速い時代だからこそ、今までの見え方と違うのかもしれません。たとえば、私が島を出る頃は、スマホやメールがこんなに一般的になるとも思ってみませんでした。宮古で初めてパソコンを触ったのは、内地の先生の家でした。今では考えられないくらいのんびりとした情報社会でした。
加速度的に変わっていく島ではスピードが求められ、トライアンドエラー、試行錯誤を繰り返すのかもしれません。あえて島の人の視点で「兆し」を読み取り、また新しい時代の荒波に向かっていくような、そんな幕開けのような気がします。そんなチャレンジングで、あららがまな2016@宮古になりそうな気がするのは私だけでしょうか。
島には、先人たちの残してくれた文化、例えば方言や歌や昔話に先人たちの思いや智慧がつまっています。私たちは、それを自分たちも使いながら、楽しみながら、どうやって次に伝えていくかと考えるだけでとても興奮します。あがい、鼻息があらいさいが、だいず!
◇あの話をもう一度
R(平良・西里出身)
「漲水御嶽」 vol.164 2008/1/17
私が、宮古島に移り住んだのは、沖縄が祖国に復帰した年、昭和47年(1972年)、小学校4年生の時です。それから高校卒業までの9年間、宮古島で過ごしました。
宮古島に住む前、沖縄本島で迎えた新年は、家族での初詣から始まりました。行く先は、決まって、波の上神宮。やー(家)から近いことが理由だったのでしょう。母も姉も着物を着ており、私もおかっぱ頭に着物を着て目一杯おめかしした当時のモノクロ写真が今でも残っています。
波の上神宮の初詣は、当時から大変賑やかなもので多くの出店が並ぶ中、参拝しに行列を作ったことを覚えています。
宮古島で住まいを構えたのは、旧平良市の漲水港(平良港)の つかふ(近く)で、宮古島の最高の聖地と言われる漲水御嶽(漲水神社とも言います)も歩いて5分の距離にありました。
漲水御嶽には、引っ越した時に誰かに1度は連れて行ってもらったものの、あの「し〜ん」とした雰囲気は、やらび(子ども)が過ごす空間ではないように感じたのか、友達と遊びに行くことはありませんでした。
宮古島で過ごした期間は、ちょうど思春期真っ盛りで、地域社会への関心は「0(ゼロ)」という時期でしたから、漲水御嶽の由縁を当時は知りもしませんでした。
さて、宮古島で初めて迎えたお正月、やはり母は、12時になると直ぐに初詣に連れて行ってくれましたが、その先は、漲水御嶽。
波の上神宮の賑やかな光景を描いて行ったものの漲水御嶽の周辺は、電気一つ点らない ふっふぁーふぁ(真っ暗闇)で、私たち家族を除いては詣でる人は一人もいません。昼間でも静かな場所なのに夜は、更に不気味に静まり返っていました。
今考えると「御嶽≠初詣の場所」ですが、引越し間もない宮古島の情報不足の状況下で勝手にこの経験から「宮古の人は初詣はしないんだ」となり翌年から我が家の初詣の習慣は、無くなることとなりました。
私が宮古島を離れた後、両親も生まれ里の旧下地町に移り住んだことから漲水御嶽に行くことはありませんでしたが、2年程前、出張で宮古島に行った際に寄ってみました。
というのも、ある女性に3年前に死んだ父は、「仏壇のある那覇よりは
『宮古がいい』と言って、漲水御嶽にいるよ」と言われたからです。
漲水御嶽を訪れた時、ちょうど狩俣から来たという60才代の女性が一人、線香をたいて拝んでいました。「旅に出ている子どもたちの無事を祈っている」ということでした。
その方に「(あなたの)お父さんも子どもたちの旅からの帰りを待っているんだねー」と言われました。宮古島を守っている神様がいるという漲水御嶽で てぃゆ かみながら(手を合わせながら)父と会話をしました。
私が、「ごめんねー、待っても誰も帰ってこないかもしれないよ」と言うと、「でも、ここ(宮古)がいいさー」という父の声が聞こえたような気がしました。
短大卒業後、「年末年始は忙しい」という仕事に就いたので、お正月に宮古島に帰るということなく、33年が過ぎてしまいました。私の思い出の中では、静かなたたずまいの漲水御嶽しかありませんが、長い時間の経過の中で、漲水御嶽のお正月の光景も変わっているかもしれません。
しかし、その数日が終わると、やはり、誰かの無事を祈る人によって、漲水御嶽では、静かに線香がたかれることでしょう。
ふるさとの話をしよう
キムキム(平良・西里出身)
「故郷(こきょう)・ホームタウンというよりも『ふるさと』『ばがやー(我が家)』『んまりずま(生まれ島)』という方が『がふ(ぴったり)』さいが」と盛り上がった今年の同期会忘年会。
年末は毎年、関東にいる同期で忘年会をしている。
T男が「ふるさとの、、、」と言う歌を歌いたいと言いだしたが とーまい、すさったんさいが(誰も知らなかったよ)。「あば、かぬやー、ふるさとの、、、てぃぬ あーぐ やすが(ほら、ふるさとのなんとか、、、という歌なんだが?)」聞けば、お父が、昔、口ずさんでいた歌だというが、サビのところしかわからんから・・・しかも、音が外れているし、どんなメロディか、誰も思い浮かばない。
少しの間、「ンフフフ♪♪・・・」と口ずさんでいるうちに、音楽なら、絶対音感のA男が、「あは〜、これじゃないか?」とカラオケのコードを入れはじめた。
「ふるさとのはなしをしよう」 砂山に さわぐ潮風 かつお舟 はいる浜辺の 夕焼けが 海をいろどる きみの知らない ぼくのふるさと ふるさとの 話をしよう 鳴る花火 ならぶ夜店に 縁日の まちのともしび 下町の 夜が匂うよ きみが生まれた きみのふるさと ふるさとの 話をしよう 今頃は 丘の畑に 桃の実が 赤くなるころ 遠い日の 夢の数々 ぼくは知りたい きみのふるさと ふるさとの 話をしよう 作詞:伊野上のぼる 作曲:キダ・タロー 歌:北原謙二
T男のお父は、当時(昭和30年ごろ)では珍しい大和婿で、離れて暮らす「ふるさと」を思って歌っていたんだろうか? さっきまで「ビューいていた(酔っぱらっていた)おじさん、オバサン達は、しんみりと ぬかーぬか(ゆっくり)、T男の歌に聞き入っていた。
そっと目を閉じると見えてくる みゃーく(宮古)。宮古で過ごした時間の倍以上を大和で過ごしてきた。「んまりずま」は、それほどまでに、愛おしく あたらすむぬ(大切なもの)。
忘年会の前の日、気合を入れて、美容院に行った。以前から、感じのいい「シャンプー係」のねぇねぇがいた。いつもは別の係が担当してくれるのに、その日は、あぱらぎ(きれいな)うぷみー(目の大きな)ねぇねぇ。そう、感じのいいねぇねぇが担当してくれた。
マッサージをされながら、しばらく話しているうち、「沖縄の宮古島って知っていますか?そこの離島に伊良部島という島があるんですけど、私は、そこで生まれ育ちました」と、シャンプーねぇねぇ。「あば、私は、ヒララだよ〜」「え〜っ」、うぷみー(大きな目)がもっと うぷみーになった。
長く、大和で暮らしていれば、沖縄出身に出会うことは珍しくないが、みゃーく ふふぁがま(宮古の子ども)は、初めてだった。高校まで宮古で過ごし、東京の専門学校を卒業したばかりだという。して、母ちゃんは私と同じ年の伊良部嫁らしい。
いつのまにか、みゃーくふつで、「あがい、おばさんなんかは、年に1回は、同期で忘年会をしているさ〜、二次会は、必〜ずカラオケに行って、最後は、クイチャーで締めるわけさ〜」と、大和での「忘年会のやり方」を披露した。
娘は、イヒーがアハーと笑いながら聞いてくれて「今度、宮古の友達に会うので、最後はクイチャ―で締めますね」と喜んでくれた。ほんの30分ぐらいのおしゃべりだったが、なんだか娘が一人増えたような気になっている。
この「ぴんなぎ(不思議な)思い」は、何かなーといつも思う。「沖縄」といわれるより「みゃーく」と聞くと反応するセンサーがある。して、どこの、どの道と言わんでも「あはー」と返ってくる答えがある。
あつかーまた。ふるさとの話をしよう・・・さ。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
今年の冬は、どこかに かっふぃて(隠れて)しまっているような感じですね。先日は、早くも一番ガース(イワサキクマゼミ)が鳴き出したと宮古テレビのニュースで報じていました。ぴんなぎ(不思議な)季節やー。まーんてぃ(本当に)。
Uターンして2度目のお正月。私の やらびぱだ(子どもの頃)とは、いろいろ変わっていますが、お正月のお客さんが少なくなったことも、変わったことのひとつでしょうか。以前は、暮れにお歳暮を持ってくる人は少なかったのですが、(宮古では年が明けてもお年賀としてではなく、お歳暮として届けるのが普通)今、実家に来るほとんどの人が暮れに持ってきます。してお正月は、家族だけで過ごす(あるいは旅行)という人が多くなっていますね。どこでもそうだとは言いませんが、変わってきていることを実感します。
1月5日は宮古の各地で成人式が行われました。お正月に帰省する人が多いということで例年この時季に行われているようです。今年は、650人が成人の仲間入りだそう。伊良部大橋が開通していから初めての成人式ということで、ニュースでも取り上げられていました。「親孝行したい」「伊良部のために役立つことをしたい」とインタビューでこたえていた新成人の女の子の話が印象的でした。
さて、新年号の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
昨年も優子さんの活動、活躍、素晴らしかったですね〜。変化が激しい中で足元をしっかり見つめる必要性、ありますねー。納得しながら読みました。外から見えること。外にいるからできること。その役割は大きいと思います。今年の「島を旅立つ君たちへ」もだいず楽しみです。ホームページも充実しています。ぜひアクセスを。
漲水御嶽(はりみずうたき)には、いろいろな想いを持っている人がたくさんいると思いますが、Rさんは、お父さんと結びついているんですね。宮古をとても大切にしていたお父さんだけに、漲水御嶽にいるという女性の言葉は、すごく納得したことでしょうね。旅にいる家族の無事を祈る姿は昔も今も ゆぬぐー(同じ)です。
宮古を遠く離れていても、あぐ(同級生)同志集まると、そこはもう宮古ですね。ふるさとへの想いが、やっまかさ(たくさん)伝わってきました。あぐのお父さんへの気持ちにも みーーんなで共感して、あぐ(同級生)てぃ、まーんてぃ ぞーむぬやー(いいものですね)。キムキムさんの宮古への想いが美容師さんをも引きつけたはずね〜。
貴方は、どんな感想を持ちましたか?ぜひ、感想をお寄せくださいね。
投稿も どんない募集中です。
掲示板での感想もお待ちしています。
今年は宮古のことを深く、幅広くお届けできるようにしたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。
次号は1月21日(木)発行予定です。
ゆー(豊穣)の多い一年でありますように! あつかー、またや〜。