くまから・かまから vol.435

  1. Home
  2. 未分類
  3. くまから・かまから vol.435

 こんにちは〜。
 梅雨明け間近を思わせる、ナビガース(クマゼミ)の大合唱が始まりました。 がんづぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
 vol.435お届けです。お楽しみください!

田植え体験

Motoca(平良・下里出身)

 娘の通う保育園から、家族で参加できる「田植え体験」の案内が来た。千葉と茨城との県境となる利根川の河川敷一面に ぴすがり(広がって)いる田んぼの一枚を園に提供してもらい、稲の苗を手植えする体験するとのこと。うむっしぎーさいが(おもしろそうじゃないか)! 私も夫も田んぼは未体験だし、娘もきっと、田んぼの泥んこは楽しいはず。迷わず「参加します」の文字にマルをつけた。

 当日、5月半ばの土曜日の朝は、日差しも やぱーやぱ(おだやか)で、過ごしやすい気温だった。だだっぴろい河川敷の上には、おーおーぬ てぃん(真っ青な空)。すぐ近くを、高速道路と鉄道の高架がそれぞれ、川の向こうへ向かってのびていくのが見える。あっがんにゃ(おやまぁ)、絶景!

 集合した他の園児家族とともに、先生のあいさつや、農場主からの説明を聞いたあと、袖や裾をまくり、裸足になって、ずー(いざ)、田んぼの中へ。ばんまい(私も)娘を抱きかかえて泥の中に足を入れた。あすが!(しかし!)「いーーーーやーーーーっ!」腕の中の娘は、脚を ばじゃらばじゃら(じたばた)させて、泣き叫ぶ。

 あば(あれ)?やらび(子ども)とは無条件に泥が好きなものと思っていたがどうもそうではないらしい。まわりを見渡すと娘と同じ年少組の女子はひとりを除き、みんな泥に入るのは、んば と(嫌だと)泣き叫んでいる。ママにしがみついて泣く子、田んぼの縁で反り返っている子・・・。年中組より上の女の子は、はじめはすこし嫌がる子もいたものの、終わる頃にはみんなすっかり泥に慣れていた。うーむ、一歳の差は大きい。一方、男子はみんな平気なようすで、ニコニコと泥に入っている。蛙やアメンボを捕まえて見せてくれる子もいた。

 年少組女子チームは、パパ・ママのみでの田植えとなった。ばんまい(私も)夫に娘を託し、我が家を代表して田んぼに戻る。同じ組のママとおしゃべりをしながら、苗を少しずつ、泥の中に差し込んでいった。苗の束から3〜4本ずつ取りわけて、20cm間隔で植えるよう説明されていたが、なかなか器用にできない。途中で振り返って植えてきた軌跡を見返すと、見事に蛇行していた。何度か、泥に足が がふ(ぴったり)とはまり、抜け出せなくなった。田んぼの中は小さい歩幅で歩くといいよ、と農場主のおじさんが最後に教えてくれた・・・。

 田んぼの半分に皆で手植えをしたあと、残り半分のスペースに、トラクターで機械植えするようすを見学した。さっきまでほっぺたを膨らませて ばたふさりどぅうた(スネていた) ばんたが(うちの)乗り物大好き女子は身を乗り出し、トラクターの ちび(うしろ)から次々と稲が出てきては植わっていくさまを、興味津々の面持ちで みーうたー(見ていた)。気持ちの切り替えは早いほうだ。

 食育に力を入れます、と日ごろ宣言している保育園だが、園児たちだけでなく、親も あたらか(貴重な)体験をさせてもらった。私としては、やらびぱだんな(子どもの頃には)社会科の教科書でしか知り得なかった田んぼ、そして稲作りに実際に触れられたことがなにより、ぷからすーぷからす(とても嬉しい)。さわやかな汗をかいて、帰宅後は家族そろってぐっすり昼寝をした。

 今後は保育園で、園児たちに稲の成長を見せにときどき連れて行ってくれるそうだ。秋には収穫も体験する予定とのこと。そして、収穫されたお米は園児たちの給食になるという。な、なんとうらやましい。やまかさーふぁいよー(たくさん食べてね)!

◇あの話をもう一度

與那覇 淳(平良・鏡原出身)

「大戦と共に散った旧七原集落」 vol.321 2014/8/7

 いまの宮古空港が旧日本軍の海軍飛行場であったことを知る人も少なくなっています。そう、書いている自分も、大人になってそのことを知りました。
 
 私の父や祖父は現在の宮古空港周辺の旧七原地区で生まれ育ちました。あの大戦時、宮古島には3つの飛行場があり、海軍飛行場用地として旧七原地区も強制的に接収されました。農耕地だけでなく住んでいる屋敷も接収対象で、元七原の百戸近く、元屋原を合わせて二百戸余が、強制移住させられたのです。
 
 旧七原は「ななばり・なだら」と呼ばれていたといわれ、「なだら」は平坦地という意味です。この地形的特徴が、飛行場用地として接収対象となる七原の悲しい運命に繋がっていきます。
 
 元々は久松からの流れで、廃藩置県前後に村建てされたようです。一帯の土地は肥沃で市街地への野菜の供給地でした。宮古の他の地域と同じように、うたき(御嶽)で五穀豊穣と集落の人々の安寧を祈り、旧暦の3月3日には、集落の中央にある大きな カーズク(沼)の側の広場に集い、久松との繋がりを物語るかのような盛大な「サニツ」行事が行われ、馬の綱引き、ぬーまぴらす(競馬)を楽しんだということです。
 
 そして、ぴゃーり(干ばつ)には御嶽を司るサスによって、うたき(御嶽)に雨乞いを祈願し、カーズク・ヌーに集まった村人たちに奉納した酒がふるまわれると、祈りはしだいに歌になり雨乞いのクイチャーになりました。
 
 そんなのどかな農村風景は、飛行場設営の名のもとに消え去ることになります。家屋の取り壊しは昭和18年10月頃から始まりました。毎年のように襲来する台風にも耐えられるように漆喰で固めた堅牢な屋根瓦が容赦なく引きはがされ、壁板もバールでもぎ取られました。台風対策用の生け垣や石垣も取り壊され、収穫前のサトウキビは刈り取られて馬草にされました。
 
 旧七原の人々の約40戸が現在の七原、平良字下里鏡原山に新天地を求め、取り壊した家屋の資材や家財道具などが荷馬車で運ばれました。元七原は四つの小集落からなっていましたが、鏡原山をはじめ、平良町と下地町と境界線、カザンミ(高千穂)の西隣り「新豊(にいとよ)」に、腰原や平良の町内へと四散しました。
 
 伝説の預言者であるクマラパー・アズは「ななばりゃーななつんばり、やーばりゃーやーつんばり云々」(七原は七つに割れ、屋原は八つに割れないと、宮古島の本当の平和は訪れない)と予言したとのことですが、後のこの悲運のことを予言したのではないかと、言われたりします。
 
 終戦と同時に米軍に占領された海軍飛行場は、その後、民間空港となり、土地接収のときに旧日本軍の将校が話していた「戦争が済めば、元の地主に返す」の約束が果たされることはありませんでした。
 
 ところで、海軍飛行場に沿って32機分の掩体壕がつくられたようですが、この掩体壕で遊んだ記憶があります。6歳前後の記憶ですので、少なくとも戦後15.6年まで掩体壕が残っていたことになります。
 
 その頃はこの地が元七原で悲運の歴史を辿ったことなど知る由もなく、威容な構築物の残骸でただ遊びに興じる少年の姿がありました。

#参考文献:「七原」久貝徳三著,「太平洋戦争記録・先島群島作戦(宮古篇)」瀬名波 栄著

ばかむぬ(若者)の眼差し

根間(幸地)郁乃(平良・久貝出身)

 先日、よしもと南の島パニパニシネマで映画『洗骨』を観た。お笑いコンビ・ガレッジセールのゴリこと照屋年之監督による話題の一作だ。トークイベントを兼ねたアンコール上映は満員。後日家族を誘って行ったときも、リピーターらしい年配女性のグループなどで席が埋まっていた。

 舞台は粟国島。島に残る洗骨という弔いの儀式を軸に、母親を亡くした家族や親せきたちの人間模様を描いている。奥田瑛二さんや筒井道隆さんというベテラン俳優のシリアスな表情のポスターから重厚なドラマと思わせておいて、そこはコメディアンの照屋監督ならではの、軽やかなユーモアたっぷりの、ぬふーぬふぬ(温かい)映画だった。

 後ろの席に座った私より二回りくらい歳上のおばさんたちは、面白い場面になると、セリフを言う前から、いひーがあはーと笑ったり、スクリーンの中のやりとりにツッコミを入れたり、グスグス鼻を鳴らしながら涙を拭いたりと、うばいがうばい(やれやれ)忙しい。まるで『鳴りとぅゆんみゃーく方言大会』のように、この映画が愛されている様子。20代後半のころ、デビューしたてのガレッジセールを取材したことがあり、現在の活躍を嬉しく思った。

 洗骨とは、亡くなった人の遺体を埋葬し、年を経た後、家族が亡骸を取り出して遺骨を洗い清め、再び埋葬する風習。映画を観て昔の記憶が蘇った方々が、鑑賞後に自身の体験談を語る姿も見られるそうだ。かつて宮古でもこの風習があり、私も二十年近く前に祖母の洗骨に立ち会ったことがある。スクリーンの中で黙々と骨を洗う主人公一家の映像に、あのときのおじさんおばさん達の姿が重なった。

 照屋監督は制作当初まったく違う話を構想していたが、洗骨という風習への驚きと、数年前に亡くした母親への想いから、この映画の脚本を書き上げたそうだ。これまでに撮った短編映画からも郷里沖縄への愛情が感じられたが、家族や命の繋がりという普遍的なテーマを描いた今作は海外の映画祭などでも評判が良いという。

 この6月、宮古島の西原公民館で、地元出身の写真家・長崎健一さんの作品展とシンポジウムに出かけた。西原集落の「ナナムイ」と呼ばれる祭祀組織、その役目を担う地域の人々を撮影した写真集『カギナナムイ』の出版を記念しての企画。2008年から2019年にかけて宮古に通いながら、折々の行事を撮り続けてきた成果が、145年間の集落の歴史に合わせ、会場内のボード全長145mにわたり、ぐるりと展示されていた。

 1982年生まれの長崎さんは、シンポジウムの中で生まれ故郷への深い想いを語った。会場に集まった地域の方々から「ケンイチ」と親しく声をかけられ、その雰囲気が写真からも伝わる。これまで宮古の祭祀は、外部からのカメラマンによって記録されることが多かったが、こうして地元の若い世代が、祭祀を暮らしの中に残していくためにカメラを向けるということの意義は大きい。

 ナナムイは本来せめて5人いないと成り立たないという。多い時代は、100人ほどいた ナナムインマ(神女)たちも、ついに2人となり、その様子に心を痛め40代になったばかりの若さでナナムイに入ることを決めた女性も客席にいらした。パネラーの一人、インギョーンマ(ナナムイを卒業した神女)の赤嶺和子さんが、一緒に神歌を謡おうと彼女たちに声をかけ、唱和が始まった。現代の生活の中で、営々と引き継がれてきた昔ながらの祭祀に従事するのは、どれだけたいへんなことだろう。神歌の美しさに聞き惚れながら感動で涙が出そうになった。

 西原では、さまざまなことに、美しさを表す「カギ」という方言を用いる。祭祀が行われる御嶽の中では、カギクトゥバと呼ばれる優美な言い回しの言葉で、にがい(祈願)の儀式が執り行われるそうだ。

 映画『洗骨』、そして写真集『カギナナムイ』。どちらも、30代〜40代の宮古や沖縄出身の方が地元を見つめて作り上げた作品だ。宮古島から急速に昔の面影が消えつつある今、心の中で何かを残していかねばと考えている、ばかむぬ(若者)たちは多い。彼らの眼差しを理解し、共感し、応援していきたいと思う。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 今月15日、16日と那覇に行く用があり、新しくできた沖縄県立図書館にも行ってきました。目的は、日本語の語源の研究をしていた北里たけし(漢字が旧漢字なのでひらがなにしました)氏が大正9年に録音したという宮古民謡「まみがぱな(豆が花)」「にーまぬしゅう(根間の主)」「そうがつぬあーぐ(正月の歌)」などを聞くこと。録音状態が良くなくはっきり聞こえるわけではありませんでしたが、当時の宮古の人の歌が残されていることに感動しました。詞は分かりずらかったですが、曲は今とそう変わらない気がしました。それにしても、図書館、素晴らしかった。ゆったりとしていて、書架に高低差をつけ見やすくしてあったりと、たぶん一日中いても、かまりんはず(飽きないでしょう)。宮古では、8月に公民館と図書館が一緒になった未来創造センターが開館します。だいず、楽しみ〜。

 さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?

 Motocaさんは、初めての田植えをしたんですね。子どもを通して親も初めてやること、ありますね〜。しかも、ぱりしごと(畑仕事)をするのも初めてだったそう。娘さんはトラクターの田植えに興味しんしん。それもまた食育に繋がることでしょうね。

 今回の“あの話をもう一度”は、慰霊の日(6月23日)が近いこともあり淳さんの「大戦と共に散った旧七原集落」を再掲載しました。今ある空港からは想像しにくいですが、忘れずにいたい話です。現在、宮古島総合博物館では「戦中の宮古 造られた3つの飛行場」という慰霊の日関連平和展が開催されています。(25日まで)

 映画「洗骨」と写真展「カギナナムイ」、表現の仕方は、違いますが、根底にあるのは、ゆぬぐー(同じ)。郁乃さんの「心の中で何かを残していかねばと考えている、ばかむぬ(若者)たち」の言葉に、なるほどと思いました。このあとのお二人の活躍楽しみです。そして、郁乃さんが次に何に感動するのかも。
 
 貴方の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよ〜)

 今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜〜。
 (今回も最後までお読みくださりありがとうございました。

 次号は、7月4日(木)の発行予定です。
 ぱだーぱだ うらあちよー(お元気でお過ごしくださいね) あつかー、またいら〜。